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新世紀エヴァンゲリオン旧劇場版の『気持ち悪い』とはなんだったのか

初めに

『 気持ち悪い 』
このエンドに衝撃を受けた人は決して少なくないでしょう。
そして、その意味を知ろうと様々な考察サイトや考察動画を漁った人もまた、決して少なくはないでしょう。

僕もまた、この一見すると「意味のわからない」終わり方に面食らった1人です。
そして、当然の如く考察を─それこそ貪るように─漁った1人です。
しかし、様々な考察を見てもイマイチ納得出来ないところやなぜそうなるのかといった疑問が浮かぶのみで、ずっと満足できる解釈を得られずにいました。
と言うよりも、そもそもネット上にアップされている考察・解釈ものが新劇場と比べ圧倒的に少なかったのです。
そうなると出来ることはただ1つ、
「ネットで得た解釈に論理的架橋をかけ、その上で自分で納得のいく解釈を作り出す」しかないです。

幸運なことに公開当時よりもネットが発達したことにより、考察・解釈の基盤・土台となる情報は当時よりも比較的簡単に手に入れる事が出来たと思います。
例えば、「首を絞める」シーンの出処や「気持ち悪い」の所以についてです。
この2つについては既にご存知の方が多いかとは思いますが、旧劇場版を最近知ったという方もまだまだいらっしゃると思うので、念の為以下に纏めておきます。


事前情報 : ラストシーンの所以

・首を絞める
これは庵野監督の知り合いの女性の実体験から来ているらしいです。
その女性はある時恋人と喧嘩になり、相手の男性に首を締められたそうです。しかし、その時何故か彼女は何故か唐突にその男性の事を愛おしく感じ優しく頬を撫でます。すると男性は首を締めていた手を離し、泣き出してしまったそうです。ところがそれを見た女性は興が冷め、「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ」と言い放った。
このエピソードを聞いた庵野監督は、そのままこのエピソードを使用することに決めたようです。

・「気持ち悪い」
このセリフについては、当初「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ」というセリフでしたが、庵野監督が「なんか違うんだよなぁ〜」状態になったらしく、宮村優子さん─アスカの声優さん─に「もし君が寝てる時に男が君を見てオナニーしていたらどう思う?」という、今でなら訴えられて当然のようなセクハラじみた質問をし、宮村さんが「気持ち悪い…ですかね。」と答えたところ、「あ〜、やっぱりそうか〜」と庵野監督。
そういった経緯があり、あの最後の謎の多いセリフ─「気持ち悪い」─がうまれたということです。
(この話には、実は宮村さんはセクハラじみた質問をした庵野監督に対して「気持ち悪い」と感じたという発言もありますが、それを庵野監督がどう受け止めたのかは不明であるため、ここでは「気持ち悪い」は自分に対する反応ではなく、「質問に対する回答」だと庵野監督が捉えたと仮定した上で話を進めます。)


解釈の仕方について

ここでは主に5つのレベルに分けて、「何故シンジはアスカの首を締めたのか」を踏まえつつ、『気持ち悪い』の理由について、レベルが上がる毎に深掘りして考察・解釈していきます。
基本的にはレベルが上がっていく毎に、僕自身の解釈としての性質が強くなっています。もはや妄想と言われても仕方ないような内容も含まれますが、そこは個人の解釈だと言うことでご理解頂けるとありがたいです。

レベル1 : 映像内での描写やセリフ、キャラクターの性格
レベル2 : 自責と罪滅ぼしが持つ性質
レベル3 : シンジとアスカの差
レベル4 : 庵野監督がアニメファンに向けた悪意
レベル5 : 庵野監督の作品への向き合い方

そして、この全てのレベルで共通して関わってくるものが1つあります。
それは『オナニー』です。
引かないでください。ちゃんと意味はあります。
むしろ、このキーワードなしには今回の解釈は成り立たないのです。
ほんの少しでもいいのでこの言葉を意識しつつ、各レベルでの『オナニー』とはなんなのかを書いていきます。

(言い訳)
今回、考察・解釈を行うにあたって通常であればアニメ・旧劇場版を見直すべきですが、時間の都合上不可能なので、記憶をもとに書いています。
誤りがある箇所が存在するかもしれません。
見つけられた方がいましたら、教えて頂けると幸いです。



レベル1 : 映像内での描写やセリフ、キャラクターの性格

レベル1では見出しの通り、作品内のシーンをもとに『気持ち悪い』の理由に対する解釈を進めていきます。このレベル1での内容は、割と多くの考察サイトや考察動画で語られている内容が多いため、既に知っている内容も含まれていると思います。
今回はその中でも主に3つの解釈(説)を取り上げて解釈していきます。


①Air冒頭のシンジのオナニー
これは本当に多くの方が取り扱っている内容ですよね。
内容としては、

「シンジは、Airで、塞ぎ込んでいたアスカの身体を見てオナニーをした( "まごころを、君に" の中で、アスカが「知ってんのよ、アンタは私をオカズにしてること。」と言っていることから、1度なら「した」で良いはずなので、もしかしたら日常的にしていたのかもしれませんが)。
そして、そのことについて非難され拒絶される事が怖くなったシンジはアスカの首を締めた。」

だから、
『気持ち悪い』

と、言うものです。


この解釈は、庵野監督が宮村さんにした質問の内容とも一致するので、「気持ち悪い」にも合点がいきますね。
また、「シンジは他人の恐怖を乗り越えたんじゃないの?」という疑問も、エヴァンゲリオンが「繰り返しの物語」であることから、「何度も失敗してその度に乗り越えようとする」、逆に言えば、「一度乗り越えてもまた失敗することもある」なので、「一度は他人の恐怖に向き合うことを決意したシンジだが、実際にその状況と向き合ったらまた怖くなってしまった」ということであれば納得できますね。

これがレベル1での『オナニー』です。


②首を締められて苦しかったから
これもまた多くの方が扱われている内容ですね。
内容としては非常にシンプルで、

「そりゃ誰でも首締められたら苦しくなって気持ち悪くなるだろ」

と言うものですね。
僕はこの解釈についてはあまり賛同できないです。
・アスカがシンジの方を見て言う必要性がさほどない
・最後の最後の締めくくりのセリフとしては意味が薄い
と感じるからです。


③男のクセにメソメソしていて気持ち悪い
これは僕がTwitterにて質問をした際に、
スリムゴリラさんが答えて下さった解釈です。

確かにアスカの性格上、言われても全く違和感のない言葉ですよね。
セリフが自然に頭に浮かんでくるようです。



レベル2 : 自責と贖罪が持つ性質

レベル2では、レベル1の①との対比性と、『オナニー』とはどんなものなのか、を踏まえつつなにが『気持ち悪い』のか解釈していきます。

・「自責」と「贖罪」
自責─自分で自分の過ちを責めること
贖罪─自分の犯した罪や過失を善行を以て償うこと
ここでいう自責は、「シンジの、アスカに対する」自責です。
そして、贖罪もまた、「シンジの、アスカに対する」贖罪です。
では、どのような自責・贖罪でそれはどんな意味を持っているのか、そしてどう『オナニー』に関係してくるのかについて書いていきます。

まず前提として、ここでの『オナニー』は性的な表現と言うよりも、『自己満足・自己陶酔 ≒ 自慰行為』という面での使い方をします。
オナニー(自慰行為)という行為の性質を捉えた上での「比喩表現的なもの」として使う、ということです。


・シンジの自責
シンジの自責とはどのようなものなのか、これは想像でしか書けないのですが恐らく、「アスカをオカズにした、加地さんの死を雑にアスカに伝えてしまった」そして何よりも「自分のせいでアスカを壊し、さらには自分のせいで壊れた世界にアスカを生きさせてしまう」というものでしょう。
そう考えると、シンジの思うアスカへの贖罪がどのようなものなのか見えてきます。


・アスカへの贖罪
シンジのアスカへの自責で最も大きなものは「アスカを(精神的に)壊してしまったこと」「壊れた世界に生きさせてしまうこと」でした。

その状態からアスカを脱却させる・救い出すにはどうすれば良いのかと考えた結果、シンジの出した答えは『 アスカを殺してあげること 』だったのでしょう。
それ故にシンジはアスカの首を締めたのでしょう。
「安楽死」を『させてあげる』という判断ですね。
あのシーンでシンジは嗚咽のような震えた声を出しつつ、アスカの首を締めています。
つまり、「アスカを失うことは苦しいが、それよりも自分の贖罪を果たすという使命を優先した」と考えられます。


・では、なぜ『 気持ち悪い 』のか
ここまで読んだ方の中には、「シンジ、キモくないか?」と思われた方もいるのではないでしょうか。
そう、傍から見ても「シンジの行動は気持ち悪い」のです。
では、なぜ気持ち悪いのか。

それはひとえに
シンジのアスカへの自責、そして自責からくる贖罪─死による救済─が、「シンジの勝手で、独りよがりな思い込みによる、シンジの自己陶酔・自己満足となっているからでしょう。

そういう意味で、このシンジの行動は、アスカからすればシンジの『オナニー』でしかないのです。

だから
『 気持ち悪い 』

この『オナニー』は、レベル1の①でのシンジの『オナニー』と対になる存在になっていると考えられます。

自責は「自分の中で自分を責めること」、そして自責をもとにした贖罪は「自分で自分を赦すこと」。
ここに「他者との関わり」は存在しないというのもポイントだと思います。
テレビ版の、「他人の中の自分を勝手に想像し、自分の形を保とうとするシンジ」の復活というわけです。
これもまた、レベル1の①と同じ状態ですね。

しかし、先にも書いた通りエヴァンゲリオンは「繰り返しの物語」です。
「気持ち悪い」という言葉でシンジはこの「自責と贖罪」が間違っていたことに気づき、そうして、また成長していくのでしょう。




レベル3 : シンジとアスカの差

長くなってきています。
レベル3です。

レベル3では、あのラストシーンを「シンジとアスカの差」をもとに解釈していきます。
ここでの「差」は、「成長の差」です。2人はテレビ版の最終2話で示されているように、根本的には同じ問題を抱えています。だかこそ、「成長の差」が大切になってきます。

それではラストシーンを振り返ってみましょう。

ⅰ )シンジがアスカの首を絞める


ⅱ )アスカがシンジの頬を撫でる、シンジは泣き出す


ⅲ )アスカ「気持ち悪い」


ここからはまず 「 ⅰ , ⅱ 」について解釈し、そして最後に「気持ち悪い」がどういう言葉なのかも踏まえ解釈します。


・「首を絞める」という行為について
「首を絞める」という行為がどのような意味を持つのかについては、レベル1の①とレベル2での解釈で、実はある共通点があります。
それは「他者というものを消す(拒絶する)」ということです。

レベル1の①での拒絶は、「アスカに拒絶されるのが怖いから、拒絶」というものです。
アスカという、恐怖を与える他者を消す。

レベル2での拒絶は、「自責と贖罪という名のオナニー、そこに他者は存在しない、これもまた一つの拒絶」というものです。
自分だけの思い込み、他者を消す。

つまり、
「首を絞める」=「拒絶」
となるわけです。
ここでのシンジは、「他人の恐怖に打ち勝てていない」のです。


・「頬を撫でる」という行為について
では、アスカがシンジの頬を撫でたことは何を意味するのでしょうか。
僕は「他者を受け入れる」ことを意味していると思います。
これは庵野監督の知り合いの経験の「愛おしくなって頬を撫でた」からも、直前にシンジの顔を母親である碇ユイが撫でた描写と韻を踏んでいることからも、マイナスで捉える必要性はないと考えられます。

そして、「他者を受け入れること」は必然的に「他者の恐怖に向き合うこと」を伴います。

つまり、
「頬を撫でる」=「受け入れる、他人の恐怖に向き合う」
ここでのアスカは、「他人の恐怖に打ち勝っている」のです。


・「気持ち悪い」という拒絶の言葉を発した理由 : シンジの涙
ここで疑問を感じた方も多いと思います。
ⅱ で、「頬を撫でる」という他者を受け入れる決意をしたアスカが、なぜ ⅲ では「気持ち悪い」というある意味最強の拒絶の言葉を発したのか、ではないでしょうか。
(『気持ち悪い』は、自分に非は無く、「気持ち悪い」と思わせる相手に全ての非がある、という、考えようによっては最強の拒絶の言葉だと僕は思っています。)

これには「シンジの涙」が関係していると思います。
アスカに頬を撫でられたシンジは首を絞める手を離し泣きだします。
この涙については、緒方恵美さん─シンジの声優さん─が、「監督に『初めて自分で自分を抱きしめてやれたときの泣きが欲しい』という要求を受けた」と語られたそうで、ポジティブな泣きであったとされているようです。普通に見ていてもマイナスに感じることはあまりないかとは思いますが……。

なんですが!
「初めて自分で自分を抱きしめてやれた」が指すものがなんなのかという点では、僕の中でこれだ!という答えは出ませんでした……。
(アスカという他者を殺してしまうと、もう一度向き合うことが出来なくなる=自分自身を抱きしめる機会を失う。
だから、アスカを殺さずに済んだ=自分自身を抱きしめられる、ということなんでしょうか……?)
(追記: 後に貼る、ニーチェとエヴァンゲリオンに関連して考えると良いのかもしれません)

良ければコメントなどで考えを教えてください!

仕方がないので別の角度からシンジ君の涙と「気持ち悪い」について考えます。
「シンジが誰のために泣いたのか」です。
誰のためでしょうか?そう、「自分のため」です。
「初めて自分で自分を抱きしめてやれた」ことに対して泣いている訳ですから、「自分のため」と言って良いでしょう。

そしてこの状況、どこかで見ませんでしたか?
そうこれもまた『オナニー』なんです。
自己完結をして感涙に咽び泣いている訳ですから。

そして、それを見たアスカは
『気持ち悪い』
を発するわけです。
当然と言えば当然だと言えるでしょう。
アスカからすれば、「他者の恐怖に打ち勝った自分」に対して、シンジは自己満足・自己陶酔という『オナニー』をしており─レベル2─、「他者の恐怖に打ち勝てていない」
さらには、自分を自分で抱きしめてやることができ、感涙に咽び泣くという『オナニー』をしていたのですから。

恐らく、これはほとんど無意識のうちだと思います。
庵野監督の知り合いの女性も「冷めてしまった」理由は論理的には理解していなかったでしょうから。

このシンジとアスカの「成長の差」「気持ち悪い」をうんだのだと思います。

また、これはアスカが「他者(シンジ)を拒絶した」ことも示唆されていると考えられ、アスカもまたシンジと同じくスタートラインに戻ったと考えて良いでしょう。


脱線

ここまでは作品の中で解釈を進めてきました。

そして、ここまでで度々使用した『エヴァは繰り返しの物語』という言葉についてですが、これを書いている最中、愛倫さん(@_loveandethics_)と『 エヴァとニーチェの関係性 』について考えさせて頂く機会があり、そこでエヴァンゲリオンはニーチェの思想がベースになっているのではないか、という結論に至りました。
愛倫さんは初心者(ご本人曰く)、僕はホントに無知から調べた、くらいのニーチェへの理解度ですので、解釈に誤りがある可能性は充分考えられますので、ご理解とご了承をよろしくお願いします。

この、僕と愛倫さんのやり取りを見ると、このレベル1とレベル2、レベル3に関しては、より読みやすいものとなるのではないでしょうか。
以下にやり取りの画像を貼っておきます。
画像のリンクからやり取りの全体を見ることができると思います。


以上です。
また、

「子供」のシンジが、「砂の城」を、作り、壊し、また作ろうとする描写があることから、庵野監督は意図的にニーチェの思想を使用していることが伺えます。
ここから、「理解しろ」とは、まさに宮崎駿的な視聴者に求める一般教養のレベルの高さを感じられますね。


シンジが一度は超人となるが碇ユイとは違い、また他者のいる世界を望んだという所についてはまだまだ考える余地がありそうです。
「超人でないならどう生きるのか」、これに答えたのが庵野監督の「他者が居たっていいじゃない」という旧劇場版なのかもしれません。

突然の脱線となりましたが、僕にとってこの解釈があるかないかで、エヴァの解像度が5倍ほど変化したので興味がある方や、よりレベル1、レベル2、レベル3の内容を簡単に知りたいと言う方にはオススメです!



現実世界に目を向ける

ここまでのレベルは「作品の内部」に目を向けて来ましたが、レベル4、レベル5については「作品の外部」、つまり現実世界に目を向けて解釈をしていきます。

この2つのレベルでのキーとなるのが、
「シンジ=庵野監督」であり、「シンジ=視聴者」でもあるということです。
シンジのモデルが庵野監督そのものだということは周知のことかと思いますが、シンジを主人公として物語が進んでいくため、我々視聴者はシンジに少なからず自己投影をします。
そういう意味で、シンジは庵野監督であり、視聴者でもあるのです。

つまり、アスカが「気持ち悪い」というときの視線は、シンジを通して庵野監督、そして視聴者に向けられているのです。

また、これから先はどうしても解釈に個人の妄想と言うものが混じっている、より確実性の低い解釈になります。
そのことにご留意の上、読んでいただけると幸いです。
それではレベル4、レベル5です。


レベル4 : 庵野監督がアニメファンに向けた悪意

ここでは作品内の描写とネットからの情報、僕の個人的な解釈を織り交ぜて考察をしていきます。
扱う内容は主に二つです。
・庵野監督の、エヴァに依存するオタクへの批判
・庵野監督の、エヴァを性的に使用するオタクへの批判

有名な話として
「庵野監督はオタクが嫌い」と言うものがありますよね。

「内向的であり、暗く、作品に依存して現実逃避をするオタクが嫌い」だそうです。
それを根拠に、旧劇場版ではそのことを表す描写があちこちに見受けられます。
実写の予告編
・シンジとレイのやり取り「夢と現実」
・ネット上での書き込みを「作品内で公開」
・映画館に犇めく「オタクたち」
これらの描写から、いかに庵野監督がオタクが嫌いなのか分かるのではないでしょうか。

そもそも作品の趣旨が、「自分で自分の価値を認め、その上で他者と生きていく」という現実に向けたものであるのに、当時の(今も、かもしれませんが)オタクたちはそれに反して作品に依存して生きることが多い訳ですから当然と言えば当然でしょう。
旧劇場版を通して「現実へ帰れ」というメッセージがオタクには向けられたわけですが、残念ながらそのメッセージを受け取る能力もないオタクもいたようです。
その点に関して、庵野監督は「そういうヤツらにはもう何を言っても無駄だと分かった」という趣旨の諦めととれる発言をしてるようです。

また、「作品を曲解するオタクも嫌い」なようです。
もっと言えば、「馬鹿すぎる視聴者に呆れた」ということです。
庵野監督が意図していない内容を誇大妄想させ、あたかもそれが真実であるかのように吹聴したり、逆に庵野監督が皮肉を込めて作った部分をそのまま受け取ったり……。
(この考察・解釈も誇大妄想かもしれないと思うと恐ろしいですが……。)
しかし、この庵野監督の怒り方、まるで宮崎駿監督のような怒り方ですね笑

また、これはあくまで推測の域を出ないのですが、シンジがアスカで『オナニー』をするシーンは、「エヴァを性的に消費しているオタクへの当てつけ」とも捉えられます。
多くの人が「シンジ気持ち悪っ!」となるあのシーンですが、恐らく庵野監督からすれば、「いや、お前たちオタクもどうせアスカやレイたちでオナニーしてるんだろ?」という当てつけなんでしょう。
誰もが「気持ち悪い」と思うシーンだからこそ、「お前たち気持ち悪いよ」がより多くの人の目線を通してオタクに向けられることになるのです。

そういえば最近、公式からガイドラインが公表されましたが、「ポルノ表現そのものを目的としたものについては控えてください」という内容が含まれていましたね。さすがにこれは考え過ぎだとは思いますが笑

そうした感情を詰め込んだのが、あの『気持ち悪い』だったのかもしれません。



レベル5 : 庵野監督の作品への向き合い方

レベル5はもう完全に妄想の域です。
庵野監督が言う「誇大妄想」かもしれません。
しかし、これが最も僕の個人的な解釈である(他のレベルは他の方の考察・解釈を参考にした部分もあるため)ので、是非最後までお付き合いください。

・作品を通しての吐露 「これ以上俺の心を覗くな」
エヴァンゲリオンという作品は、明らかに庵野監督の内面を全面に押し出した作品であると言っていいでしょう。
しかし、それは庵野監督にとっては「自らの心を一方的に他人にさらけ出す」ことを意味しています。
ここでのキーワードは「一方的に」です。

庵野監督は心をさらけ出して作品を作っているのに対し、視聴者は心を閉ざしたまま作品に向かうことができます。
そして、「批判」も。
庵野監督からすればこれ程不公平なことはありませんよね。
しかし、エヴァが「庵野秀明の内面を形にした作品」である以上、内面を晒し続けるしかないのです。
テレビ版最終話でボロくそに叩かれた庵野監督が最後にシンジを通して視聴者に放った『これ以上俺の心を覗き込むんじゃねぇよ』というメッセージ、これが『気持ち悪い』だったのではないでしょうか。


・作品のオナニー性を自虐している
創作とは得てして作者の『オナニー 』だと言われることが多いです。
それは創作という行為が持つ性質に起因します。
どういうことかと言うと、言ってしまえば「創作は自己満足・自己陶酔の道具である」からです。

それ故に、庵野監督が「エヴァンゲリオンを通して俺がしたかったことは結局オナニーに過ぎないのかもしれない」と考えていたとしても不思議はありません。

つまり、アスカの『気持ち悪い』はシンジを通して庵野監督自身に向けられていたのではないでしょうか。

そして、そうであるからこそ、視聴者に対して「期待するな、口出しするな、結局この作品は俺のオナニーなんだから」と開き直ったような姿勢もとれるわけです。



あとがき

まずは最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。
内容としては多くがネット上に投稿されていたものに論理的架橋をかけたに過ぎなかったかもしれないと、今更ながら思っています。
オナニー、オナニー言っていただけかもしれません笑
個人的な解釈としては、脱線での愛倫さんとのやり取りが最も「個人的な」解釈だったような気がします。

また、少し話は変わるのですが、『旧劇場版は何エンドか』についてツイートをしたことがあります。
これもまた、愛倫さんとのやり取りを見ると「なぜやり直すのか」についてなどが分かりやすくなると思います。

また、僕はエヴァンゲリオンは『手』の作品だとも思っています。

引用元「 http://www.en-soph.org/archives/23738746.html」
(画像のリンクから引用元のページに飛べます)

この解釈の中でも書いただけで
・首を絞める手
・頬を撫でる手
があるように、様々な「手」がエヴァンゲリオンの中には登場します。

例えば

僕はエヴァンゲリオンにおける「手」は、『 「心」が形になったもの 』だと思います。
また、「手」は「触れる」の象徴でもあると思います。
そして、「触れる」はエヴァンゲリオンという作品において大きな意味を持っていますよね。
そしてまた、「心」も「触れる」ことができるものです。
そんなところにも、キャラクターの心情や、そのシーンがどのような意味を持つのかを解釈する際の材料となるものはあるのかもしれません。

またまた脱線してしまいました。すみません。


さて、本当に最後です。
ここまで書いてきたのは、事実ではなくあくまで僕の個人的な解釈です。

エヴァンゲリオンは多くの解釈が生まれる余地をあえて残してくれている作品です。(庵野監督はあえて答えを出さないとしています。)
大切なことは、他人の解釈に装飾をするだけでもいいから「自分なりの解釈を持つこと」ではないでしょうか。
なぜなら、ニーチェ先生が言うように「事実は存在しない、存在するのは解釈のみ」だからです。
人の数だけ、その人なりの解釈が存在するはずです。
庵野監督が敢えて答え合わせをしないのは、そのようなニーチェの思想の影響を受けているからではないでしょうか。

現在、旧劇場版の再上映が行われていますね。
コロナ対策をしっからとした上で観に行かれる方も多いのではないでしょうか。
そのときにほんの少しでも、僕のこの解釈が皆さんが自分なりの解釈をする際に役立てば幸いです。

また、その皆さんの解釈を、Twitterやコメントで教えて頂けると嬉しいです!

それでは、ありがとうございました!


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