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究明する会ニュース211号要約

<コロナ禍、感染症研究所から人骨問題に思いを馳せ、陸軍軍医学校を考える 人骨発見33周年・佐倉鑑定公表30周年無事開催 厚労省納骨20年で追悼式を挙行>
 人骨保管施設に人骨が納骨されてから33年目、コロナ禍を経て3年ぶりの集会開催。正午にスタッフ10名で国立感染症研究所内の人骨保管施設を訪ねた。
 会場の戸山サンライズ大研修室には、パネル「人骨は訴える」を展示。午後2時から川村代表の講演、100年前に世界を席巻した「スペイン風邪」と日本における陸軍軍医学校などの対応について90分話し、その後質疑応答があった。参加者は会場33名、ズーム参加が約30名であった。
 講演内容については次号に掲載。
<アンケート結果報告>
 内容省略
<陸軍科学研究所が「満洲」で人体実験②―浮かび上がった安達部隊の存在> 2022年3月18日 川村一之
・渡辺証言
 渡辺は敗戦時、四平憲兵隊の栴河口憲兵分隊長となっていた。憲兵少尉であった。証言の信ぴょう性を検討する。
第一、時期と場所
 時期は1934年11月9日~12月16日、二回に渡って行われた。2回目の終わりに被験者が逃亡し、隠蔽の後始末に数日かかった。
 場所は「四平郊外西方約1キロの元中学校校舎」
第二、参加部隊
 実験に関与した部隊は、被験者を輸送した20数名の守備隊。被験者の監視・実験補助のために編成された約10名の憲兵隊。実験を直接行なう安達試験場長ら24名の陸軍化学試験所の満洲派遣部隊。
第三、実験内容
 第一試験は毒ガス試験。講堂内の幕舎に毒ガスを充填。被験者が気絶したところでガス栓を閉じ被験者を軍医が診察。その後窒息性ガスで殺し解剖室に運んだ。
 第二試験は煉瓦建て平屋の建物内で、生きた人間を鉄製の箱に仰向けに入れ、固定して様々な部位に注射。皮膚はただれ、仮死状態になった中国人の肉体を切り裂き、ばらばらにしてブリキ缶に入れた。
第四、被験者
 被験者は中国人。貨物倉庫内前に停められた鉄製有蓋貨車から材料にする人間を受け取った。一回の試験で「30本」だった。
第五、被験者の逃亡
 第二試験が終了した翌日未明、被験者の一人が逃亡。夜遅く安達試験場長の元に主な幹部が集まり協議、国際法違反の毒ガス実験が露見することを恐れて、一切の証拠を隠滅して撤収。留置場に監禁していた20名の中国人を高圧電流で半殺しにし、火葬場で焼き殺した。
・証言の信憑性
第一、時期と場所について
 遠藤三郎が目撃した1933年11月16日から、渡辺証言は一年後。場所の元中学校校舎は「東北第一交通中学校」(遠藤は「交通中隊内試験場」と書いている)。同校は1927年に設置され、「満州事変」後に閉鎖。その後、安達部隊が接収したのが1933~34年末の一年半。その後四平街師範学校として利用。
第二、関与部隊について
 実験に関与した「守備隊」とは、大隊本部が四平街に置かれていた独立守備歩兵第一大隊(昭和9.12.10調)と思われる。憲兵隊で名が挙がっている数名は関東憲兵隊将校同相当官職員表(昭和9.8.1調)で確認できる。渡辺証言は信用できる。
 人体実験を行った「陸軍化学試験所満洲派遣部隊」とは、陸軍科学研究所の第二部を中心とした部隊である。安達十九が事実上の責任者であり、安達部隊と呼んでも差し支えない。
第三、実験内容について
 実験は様々な毒ガスの効力試験だった。安達は1936年1月、「技術的見地よりする対〇化学戦の研究」(〇はソ連の事)をまとめている。この実験は、時期的にも内容的にも四平街試験場で行ったものと重なる。
第四、被験者について
 被験者を何本と数えるのは七三一部隊と同じだが、「マルタ」ではなく「材料」と呼んでいる。渡辺によるとこの一連の実験で約70名の「材料」を用意した。1933年にも同様の実験があったとすると、「材料」とされて命を失った中国人は140名にもなる。
第五、被験者の逃亡について
 1934年末に逃亡事件があった。同じ年の9月に背蔭河でも逃亡事件が起き、五常研究所は閉鎖する。四平街試験場も、安達大佐と憲兵隊、守備隊、関東軍参謀も加わって事態収拾に向けて謀議、証拠隠滅を図って撤収した。この時の参謀は遠藤三郎ではなく、後任の河辺虎四郎であった。
第六、常石敬一著『731部隊全史』
 ここまで調べて、常石敬一元神奈川大学教授の新著にも同様の指摘がある事に気付いた。私と731部隊罪証陳列館の譚天研究員による調査は、安達部隊が人体実験をした場所を特定したことである。この調査が常石氏の研究の補強になったのなら幸いである。
<戸山「人骨」と陸軍軍医学校(その1)> 2022.7.2 川村一之
 早稲田大学教育学部社会科教育法(小川輝光講師)における第4回目の特別講義を6月17日に行った。今回は尾張徳川家の屋敷が明治維新以降陸軍施設になったこと、市ヶ谷の防衛省内にあった士官学校本館保存運動や陸軍科学研究所の毒ガス弾埋設問題にも触れた。
(以下、学生との質疑応答は省略)
<レイバーネット・フィールドワーククラブ 第1回「軍都新宿と731部隊」> 根岸恵子(web記事より転載)
 5月15日、軍都新宿を巡る第1回のフィールドワーク開催。参加者は18名。案内人は究明する会の鳥居。射撃場跡地・諏訪神社、近衛騎兵聯隊があった学習院女子大、戸山ハイツの陸軍幼年学校跡地、陸軍戸山学校跡地を巡り、メインテーマである731部隊の総本部だった防疫研究室跡を見る。陸軍軍医学校跡地の人骨発見現場・納骨施設へ。それから陸軍砲工学校跡地の総務省第二庁舎をめぐり、安倍の肝いりでできた産業遺産情報センターを門外から見てゴール。
<私学九条の会フィールドワーク> 吉田守 同会・東京ニュースNo58(22.7.18)に加筆修正
・究明する会鳥居さんのガイドで出発
 私学九条の会東京第10回フィールドワーク(第50回憲法学習会)「新宿・戸山の戦跡を訪れる」を挙行。6月5日早稲田駅に集合。参加者は15名。各自自己紹介の後、鳥居が解説。
・夏目坂から陸軍軍医学校跡地へ
 幕末にもあった小倉屋酒店と夏目漱石の生家屋敷跡、夏目坂を通って早稲田大学理工学部研究所喜久井町キャンパス内に空襲被災者を供養する観音像がある。陸軍軍医学校の生徒を受け入れた清源寺、喜久井観音がある感通寺を経て、陸軍軍医学校の通用門へ。尾張徳川藩下屋敷後に陸軍戸山学校が設けられる。そこに軍楽学校、陸軍軍医学校、陸軍第一病院が。
・人骨発見の地を訪れ献花
 1989年に人骨が発見、その由来調査が実施され、保管が決定する。後に近隣の発掘調査も行われたが、それ以上の発見はなかった。納骨施設では献花も行う。
・防疫研究所跡地から箱根山へ
 石井四郎の具申により軍医学校防疫部地下に防疫研究所が新設、西側に拡張された。そこが731部隊をはじめとする防疫給水部の中枢機関。そこから陸軍戸山学校へ進む。
・陸軍幼年学校から戸山ヶ原射撃場跡地へ
 西側の高台には東京陸軍幼年学校。北側に近衛騎兵聯隊の駐屯地。明治通りを超え戸山公園大久保地区・早稲田大学理工学部がある場所には、戸山ヶ原射撃場があった。最終目的地、「明治天皇射的砲術天覧所址」碑が残っている諏訪神社は午後4時を過ぎて境内に入れなかった。新宿区には都心の西に続く地域としてアジア・太平洋戦争期に軍事施設が多く設けられた。

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