調神社(つきじんじゃ)

神社の所在地

埼玉県浦和市岸町に、延喜式足立郡四座の内一つである調神社があります。一般に「つきのみや」と呼ばれています。岸町は今でこそ櫛比(しっぴ)した市街のまん中になっているが、江戸時代ばかりでなく、明治十三年の埼玉県管内地図で見ても、岸町は独立の村で、浦和宿とは別の寂しい農村であったらしい。「新編武蔵風土記」は、岸村について、次のように記している。

「民家十四、東は大谷場村に接し、南は白幡村に隣り、西は別所村にて北は浦和宿なり、東西十五六町、南北五町余、村の中間を中山道の往来貫けり」

古代における付近の地形

この岸村と白幡村とは、大宮台地の南の尖端で、調神社のはじめて祀られた上古の頃には、このあたりは三方とも湖沼、というよりも、旧東京湾が奥深く入り込んだ入江に取り囲まれた地であったと想像される。村名の岸も入江の岸の意味であったろうと思われる。岸村の西に深く入り込んだ低地(今は浦和市内の町)となるが、そこには十羅刹社という小社があった。この神社の由来は、この辺一帯が入江であった頃、運漕中の船が一そう、当所で風難にあい、多くの人が溺死したので、その追福のため船の艫(とも)を切ってここに埋め、その上にこの社を祀ったのであると言い伝えている。元禄の地図によると、別所村の西方に鴻沼(こうのぬま)というかなり大きい沼のあったことがわかる。その北辺は、与野の下落合に及んでいるから、長さ約三キロメートルあったこといなる。この沼も上古の頃にこの辺が入江であった時の名残りと思われる。
 岸、白幡両部落の南方も、おそらく古墳時代には一面の入江のつづきであったろう。深水とか水深(水深公園)というような地名も残っている。そして美女木、戸田、川口(いまの市街地)のあたりは小高くて、おそらく陸地となっており、その向こう側、すなわち南側に旧入間川が流れていたろう。そして今日の川口市の中心地は、当時はその名の通り、旧入間川の河口であったと思われます。
 また、岸、白幡両部落の東方は、やはり入江が奥深く入り込んでおり、その一部は調神社のすぐ南まで及んでいたそうです。またその東側には、大塚部落をふくむ半島が細長く入江の中に突出しており、さらにその東南には、峰、塚越などをつらねる小大地が、島となって浮かんでいたと思われます。
 国土地理院作成の二万五千分の一の地図による等高線により、かつ付近の地形を実見することによって、当時の地形を復原してみると、上図のようになります。

境内の槻(ケヤキ)

調神社の境内は、今でも相当に広いが、戦前においては二万平方メートルもあったそうです。境内にはケヤキの老樹が枝を交えて鬱蒼と繁りあい、昼でも暗いという感じがあったそうです。現在でも社殿の近くにはケヤキの古木が数十本は残っているが、社地の半分以上は公園となって、子供の遊び場があったり、公共の建物が立っていたりしています。ケヤキは槻(ツキ)ともいうから、このケヤキの林から社名が出たという人もいて、社名にちなんで昔特に槻(ケヤキ)を植えたのではないかと考えられます。もっとも武蔵の古社には、ほとんどどこでもケヤキの古木が多いですが、当社には特別に本数が多かったようです。

社殿と古墳

当社の社殿は、銅葺きの凝った権現造り、本殿の彫刻もなかなか成功なものに見えます。当社の社殿から東方三十メートルほどへ立てて稲玉社という社殿という小祠が祀られていて、むかしはここに調神社の本社があったと伝えられています。そしての稲玉社の東に接して、終戦直後の頃までは一つの古墳があったそうです。長さ三、四十メートルの小型の前方後円墳で、それを公園風に設えて(しつら)、頂上までお歩いて登れるようになっており、前方に池がのようなものがあり、それが戦後のいつの間にかすっかり崩されて平地となり。今は大きな噴水池などがそのあたりに作られています。ちなみに現在の本殿の横手に旧本殿の建物(稲荷神社)があり、そこにも兎の彫刻が施されているそうです(覆いに囲まれていて入れませんでした)

調氏との関係

調神社の社名はどうして生じたのでしょうか?古代において徴税の職を世襲した調氏に関係が深いのではないかと言われいます。応神天皇の朝に、百済(くだら)から日本に渡り帰化した努理使主(ぬるみのおみ)の子孫で、朝廷に仕えて租税のことを掌った氏族に、調吉士(つきのきつし)がいます。また聖徳太子の侍臣に、調使(つきのつかい)があり、「天武紀(日本書紀 28巻以降)」には調首淡海(つきのおびとおおみ)なるものが見えています。さらに「新撰姓氏録」には左京諸審に調連(つきのむらじ)があり、百済族となっています。筑後や和泉にも調氏がいて、繁栄していたようです。
 調神社の社殿によると、崇神天皇の朝、伊勢神宮の斎主倭姫命が参向され、この清らかな岡を選んで調物を納める御倉を建てられ、関東一円の御初穂を集納、運搬するとこに定められたとあります。
 武蔵における伊勢神宮の神領地、すなわち御厨(みくりや)で生産された年貢米を、この岸部落の倉庫に貯蔵したのではと考えましたが、ところが当時の御厨としては、大河土御厨(おおかわどみくり)、板倉御厨(いたくらみくり)、榛谷御厨(はりやみくり)などの名が「吾妻鏡」などに出ていますが、これらの御厨の起源は、早くても平安期を遡ることはなさそうと考えられます。これらは、その土地の開墾・領有した地方豪族たちが、一方には敬神の観念から、他方には徴税を免れる方便として、その領有地を伊勢神宮に寄進して、自らはその荘子となって実権を握っていたように考えられます。古墳時代の頃には、このような伊勢神宮の神領地が武蔵国にあったとは考えにくいからです。

ミヤケの稲穀の貯蔵所

調神社の所在地は、武蔵国にあって天皇家に属していた屯田(ミヤケ)から収穫冴えた稲穀ををまとめて大船に積み込み、難波方面に向けて運搬したもの考えても良さそうです。そして中央から派遣された調氏の一族がここに駐屯して、代々ミヤケの収穫物を管理・運搬する責任者の地位にあったと考えれます。武蔵付近には相当広く、大和朝廷のミヤケとなった土地があったと考えられます。大化の改新以前に天皇家一族に属したたくさんのミヤケ(中大兄皇子だけでも百八十一所のミヤケをもっていて)は、その相当部分が空閑地の多かった関東地方(それも海上交通の便の良い東海道諸国)に散在したと推測されます。そして武蔵国のミヤケの産稲のミヤケの産福を川舟によって運んで来て保管するのに、岸部落は最適な場所にあったと考えられます。古代においては、月神社の境内のすぐ南まで入江が入り込んでいたので、当時においては、今の境内の御倉屋敷の敷地の一部で、そこに収納米を積んだ船が横づけされたのではないかと想像します。

神社の起源

調神社は、足立郡岸の調氏(つきし)が、その氏神として奉斎した神社です。当初は御蔵やしきの一隅に小規模に祀られた祠であったように感じられます。現在の同社の祭神は、天照大御神、豊宇気姫命、素戔嗚尊の三柱となっていますが「延喜式」神名帳では、当社の祭神は一座だけです。天照大御神か宇賀玉神のいずれかであったのでしょう。しかし、当社の境内にかつて存在した古墳の主が、初代の武蔵の調氏であるとすれば、その初代の調氏を祭ったのが調神社のはじまりかもしれません。

神社の伝説

およそ神社には鳥居がつきものですが、この調神社にだけは、昔から一つも鳥居がありません。それは当然に荷物を搬入・搬出するにはついて、妨げとなったという理由によると考えられます。また当社では、昔からを松を忌み(いみ)、境内には松の木は一本もありません。これも同じ運搬に邪魔になるからという理由に基づくようです。これらの云い伝えも、当社がかつて大量の物資の集散の中心地であったと思わせます。

調神社の七不思議

  1. 鳥居がないこと。調物を運び入れる妨げとなるため、倭姫命が神門と鳥居を取り払ったと伝えられる

  2. 境内に松がなりこと。当社にゆかりの天照大神・素戔嗚命の姉弟神がこの地にきたところ、弟神が大宮の氷川神社に行ってしまい、持っても帰ってこないので、「待つ(まつ)のは嫌いじゃ」と言われたことに由来する。とか、初穂米搬入の際に荷司が松の葉で目を潰したため松の木を取り除いたこと、が由来ともいう。現在も正月の門松には竹のみが用いられる。

  3. ひょうたん池と称された御手洗池が、かつて飛地境内にあったが、その池に魚を放てば必ず片目になると言われたいた。

  4. 使姫兎のこと。調神社(つきじんじゃ)は調→月の音通から、のちに月待信仰の宮とんあり、「月の宮」「月待の宮」「月読大明神」「二十三夜詞」とも呼ばれ、月にちなんで兎を使姫とするようになった。当社では狛犬の代わりに兎の像が用いられ「狛兎」で、神札や御朱印帳には兎が描かれ、灯籠にも兎が像られている。昔は二十三夜仏と行って、兎を掘った石仏が多くつくられたいた。また氏子中で兎を殺したり、その肉を食べたりすると、祟りが厳しかったと伝えている。

  5. 日蓮上人駒つなぎの欅(槻)。文永八年(1271)上人が佐渡に渡刑の途中にこの地に来たとき、難産で苦しんでいた女性のために、調神社の境内の未申の界に立っていた欅に駒(駒とは馬)を繋ぎ、その木に曼荼羅をかけ、安産の祈りをすると、ほどなく安らかに男の子が生まれた。この欅は神木として、安産の守護神と言われている。また一説には、欅の木に駒をつなぎ、その根元に座って当社に安産の祈願をし、お経一巻を収めたともいう。

  6. 蝿がいない。

  7. 蚊がいない。確かに!境内に入った瞬間に空気が変わり、清々しい風が、神社内を隅々まで駆け抜け、いるだけで気持ちの良い、最強に浄化される神社です。気持ちすぎてぼーっと立っていましたが、蚊に刺されませんでした。





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