知らぬが仏


私にはあまり、感情がない。

というと少々語弊があるかもしれないが、特に負の感情が私にはほぼない。たとえば「嫌い」「腹が立つ」などだ。

こう言うと「ポジティブでいいじゃん」なんて言っていただいたりするんだけど、決して負の感情を前向きに捉えたり、陰を陽に転換できる人間というわけではないので甚だ私には勿体無いお言葉だと感じる。
ただ、そういうものに「興味がない」だけなのだ。

勿論全くないわけではない。
嫌なこともある、腹立たしいこともある。しかし、後からよく考えると「わたしは本当に嫌いなのか?腹が立っているのか?」と分からなくなってしまう。自分のことなのに。これは幼い頃からずっとそうだ。「わたし」という人格をまた別の「わたし」が冷静に分析しているような、いつもだれかに見られていているような。
普段の私はそれを隠すように腹を立てたり、悲しんだり、嫌ったりする「フリをしている」と表現するのが一番しっくりくる気がする。

たとえば誰かに陰で文句を言われていようと、有る事無い事言われていようと、その相手に対して「嫌い」という感情がはっきりとは生まれないのだ。
それは決していい人ぶっているとか、八方美人だとかそういう類のものではない。と、思う。


母にいつか言われたことがある。
「マイナスの感情がないことは別にいいことではない。きっといろんなことに無関心なだけで、さみしいことだよ。」

たとえば私にとっての好き嫌いの基準は「自分にとって必要か不要か、関係があるかないか」が大部分を占めているらしい。
自分に関係のないものに「好き」や「嫌い」という感情が生まれるはずがない。そこにあるのは「無」でしかない。

ああ、これか。
これが「無関心」ということなのか。
これからきっと死ぬまで私を縛り付ける言葉になるんだろうと、幼いながらにそう感じたのをよく覚えている。


私は昔から自分がこうありたいと思う自分像を、それが実際の自分とかけ離れていようとも、出来る限り誰にもバレずにそれに近いものを演じ切りたいという変なプライドがある。
そしてそんな私を周囲が私そのものだと認識してくれる度に、元々はつくりものだった自分が、自分そのものになっていく感覚がたまらなく好きだった。
「なりたい自分」を「それがあなた」だと周りが思ってくれることほど嬉しいことはなかった。
それが結果的に、中身のない空っぽの自分を作り上げてしまったのかもしれない。
学生時代の過去の私も、仕事中の私も、オタクをしている私も、あのアカウントの私も。どれが自分なのかが今となってはよくわからない。


SNSが普及した昨今、相手を目の前にせずとも文面である程度どういう人なのか読み取れる時代となってしまった。私はその人が選ぶ言葉、言葉の並べ方だけを見て、どんな温度かも分からないまま「知った気」になっている。

相手が本当に伝えたかったことと自分が捉えたものにズレが生じることは少なからずあると思う。勿論その逆も。
その人がどんな声色で、どんなことを考えながら、どんな表情でそれを言っているのか、文面では何もわからないからだ。

だからこそ私は、自分の目の前にいない人へ抱く「負の感情」が怖いのかもしれない。そしておそらく自分も誰かにとって知らないところでそうであるかもしれないことが怖いのだ。

無関心なのではない。
知るのが怖いのだ。


「知らぬが仏」とはよく言ったものだ。
知らなければ、気づかなければ傷つくことがない。
まったく自分勝手な話だ。それはつまり、誰かを傷つけていることにも、嫌な思いをさせていることにも気付きたくないだけなのだから。

果たしてこれは「無関心」なんだろうか。
感情がない、のだろうか。


私の世界には多分、知らなくていいことのほうが多い気がする。
知らずに後悔することも、知れてよかったということも確実に存在する。わかっている。

でも、知ってしまったあとは、知らずに生きていた頃には戻れない。
どうか馬鹿でいさせてほしい。






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