佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』/ 紀伊國屋じんぶん大賞を読む。

今回は第一回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』
を紹介いたします。

2010年代の人文書を振り返り、2020年代の人文知について考えるために
紀伊國屋じんぶん大賞をぜんぶ読む、という動画をはじめました。

■紀伊國屋じんぶん大賞2010
https://www.kinokuniya.co.jp/c/201101...


〜 今回紹介した本 〜

●『切りとれ、あの祈る手を』
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●『ゲンロン4 現代日本の批評III』
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●『夜戦と永遠』(上・下)
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以下、動画の文字起こしです。

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こんにちは。倉津拓也と申します。本屋で働いたり、人文系のイベントを企画したりしています。このたび、紀伊國屋じんぶん大賞を読む、という番組をはじめました。2010年代の人文書を振り返ってみようと思ったときに、紀伊國屋じんぶん大賞というのがひとつの手がかりになるかな、と思ったからです。

紀伊國屋じんぶん大賞というのは紀伊國屋書店が主催する、読者の投票によって選ばれる人文書の賞のことです。ここでいう人文書とは、哲学・思想/心理/宗教/歴史/社会/教育/批評・評論に関する書籍です。2011年に始まりました。これが始まったころ、ちょうど私も紀伊國屋書店で働いていました。
毎年、その年のベスト30が紹介されるのですが、ここでそれぞれの年の大賞を紹介してみましょう。

第1回(2011) 佐々木中『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』
第2回(2012) 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
第3回(2013) 柄谷行人『哲学の起源』
第4回(2014) 千葉雅也『動きすぎてはいけない-ジル・ドゥル-ズと生成変化の哲学』
第5回(2015) 東浩紀『弱いつながり』
第6回(2016) 岸政彦『断片的なものの社会学』
第7回(2017) 加藤陽子『戦争まで』
第8回(2018) 國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』
第9回(2019) 木庭顕『誰のために法は生まれた』
第10回(2020) とうはた開人『居るのはつらいよ――ケアとセラピーについての覚書』

この並びをみると、それぞれの年の雰囲気を反映した人文書が受賞していると感じます。
10年代の人文書を振り返る、という意味で、似たような企画として、東浩紀さんが編集されている雑誌のゲンロンで連載されていた現代日本の批評、という特集があります。ご関心がある方はそちらも読まれてみてはと思います。

さて、今回は第一回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作、佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』
を紹介いたします。

佐々木中さんは1973年生まれ。哲学者であり、作家でもあります。亡くなられた古井よしきちさんと親交があり、追悼文を文藝に載せています。これも切なくていい文章でした。最近小説を書いていないのは「依頼が来なくなってしまったからである」と書かれています。デビュー作は『夜戦と永遠』という、はくし論文を書籍化したもので、『切りとれ、あの祈る手を』が2作目となります。切りとれの切という字と手という字からとって、切手本という略称があります。

帯文で保坂和志、いとうせいこう、宇多丸が推薦コメントを寄せていますが、作家やミュージシャンから広く支持を受けたことが話題になりました。他にも、例えば法哲学では、中山竜一さんがルジャンドルについての入門書として挙げたことがあります。

また、若い世代に大きな影響を与えたことで知られています。2015年に安保法制に反対するデモで話題になったシールズ、自由と民主主義のための学生緊急行動という大学生を中心とした政治団体は、この本なしには成立しなかったと言われています。

女優の吉岡里帆さんなんかにも読まれています。紀伊國屋じんぶん大賞を受賞した書籍全般に言えることですが、どれも広く読者に開かれた書籍だといえます。

東浩紀さんがゲンロンの座談会でこの本のことを「ヘルダーリンもヘーゲルもシェリングもクライストもノヴァーリスもハイネもニーチェもリルケもツェランも」という感じで言及されてますが、これに習って圧縮して言えば「ニーチェもルターもムハンマドもフロイトもウルフもベケットもルジャンドルも」という感じの本だと思います。それではさっそく、この本の内容に入っていきましょう。

題名の「切りとれ、あの祈る手を」はツェランの『光輝強迫』という詩から取られています。ここで全文を朗読してみましょう。

切りとれ あの祈る手を
空中
から
目の
鋏で、
その指先を詰めよ
お前の接吻で

折り畳まれたものが 今
息を呑ませる有り様で生じる。

「折りたたまれたもの」というのは本、書物のことです。
大変美しい詩ですし、この本全体のメッセージを考える上でも重要な文章です。この詩を参照しながら、本書の内容を解説してみましょう。

まず祈る手を切りとれ、という言葉から。これだけだとずいぶん過激な詩だと思われるのですが、目の鋏で、口づけで切りとれ、と言っているので、ここでは直接的な暴力が言われているわけではありません。この本のテーマはサブタイトルにもあるように〈革命〉ですが、そこで強調されるのは、革命の本体は暴力ではない、ということです。では革命の本体とは何か。それは「折りたたまれたもの」です。これはサブタイトルにある〈本〉、そして文学こそが革命の本体であるということになります。

それでは、革命の本体、本を読むとはどういうことでしょうか。そこでルターやムハンマド、中世解釈者革命の話になります。

世界史の知識になりますが、いま流行りの感染症の話題でいうと、ペストと宗教改革は関係していると言われています。ローマ教皇がいくら祈ってもペストは治まらない。医学を担当していた神父たちも全然治せないわけです。そこで人々が不満を持ち始め、その後の宗教改革へとつながったそうです。

ルターが宗教改革という革命を始めたのが1517年。95か条の論題をヴィッテンベルクのしろ教会の門に叩きつけたことから始まったとされています。
ルターはよく聖書を読みました。どこまでも読み込みました。その結果、聖書のどこにも、教会に金を払えば罪が許されるなんて書いてない。教皇が偉いなんてことも書いてない。自分たちがやっていることに、何の根拠もないということに気づきます。

また、イスラーム教創始者のムハンマドは文盲でした。にもかかわらず、神から「読め」という啓示を受けます。読め、と命じられた本は神の言葉で書かれていて、そもそも人間には読めない本でした。そんなムハンマドが神の言葉を読み、クルアーンを書きました。

また、中世解釈者革命は、後世のローマ法の発見と、その読み込みによる教会法の書き換えです。これは近代法と近代国家の起源になりました。これは地味なようですが、革命の中の革命、革命の起源であるとされます。

なぜこれらが革命なのか。中世解釈者革命、ルターの革命は、教会法の革命でした。ムハンマドの革命はイスラーム法の創造でした。それらはキリスト教共同体の全体、イスラーム共同体に生きる人々全体にかかわるものであり、単に聖職者にかかわるだけのものではありませんでした。

ルターの革命、ムハンマドの革命、中世解釈者革命、これらに共通しているのは、聖書や神の言葉、そしてローマ法というテクストを読むこと、そして従来の法を書き換えることでした。ここから革命の本体とは、本を読むこと、そして広い意味での文学なのだ、という結論になります。

ここでいう「文学」とは、言語芸術としての「文学」を超えて、読んだり、書いたりする技法一般のことを指しています。ここから、法や規範や制度にかかわる「法」というテクストを読み、書く技術も「文学」とされます。

もちろんフランス革命やアメリカ革命、ロシア革命など、ほとんどの革命では大きな暴力が振るわれています。だからこそ、そもそも革命とは何だったのか、を考えることによって、暴力によらない、別の形式の革命が可能なのではないか、という問いかけがあります。
暴力によらない、別の仕方での革命へ賭けよ。ラカンの用語で言えば「女性の享楽」を目指せ。それがこの本の最大のメッセージです。

では、「切りとれ、あの祈る手を」というとき、目の鋏で、口づけで切り取られた「祈り」とは何でしょうか。それは「終末論」と呼ばれる思想です。そのなかでナチス、オウム真理教が批判されますが、並べて批判されるのが歴史の終わり、近代文学の終わり、芸術の終わり、写真の終わりといった言説です。

まず、この本で言及されている「終末論」とは何でしょうか。
ここでいう終末論は、ユダヤ・キリスト教の終末論とは区別された用法で用いられています。ここでいう終末論とは、「いつか」終末が来る、という思想ではなく「自分が生きている間に」終末が来るという思想です。ナチスやオウムが例として挙げられ、このようなものを望む欲望についてはラカンの「絶対的享楽」という用語で説明されます。
また、「自分が生きている間に」歴史は決定的瞬間を迎えている、という思考も同列のものとして扱われています。ここでは現代思想が批判されますが、例としてアガンベンが挙げられています。
なぜこれが批判されるかというと、ここが決定的瞬間である、ここが歴史の終わりである、と判断する根拠が自分だからです。ここが終わりだ、ここが決定的瞬間だ、と決定する根拠が、自分の外側にオブジェクトとして存在するテクストではなくて、サブジェクトである自分なので、自分で終末とか決定的瞬間を好きなように指定できてしまう、ということになります。

なんでこんな思想に陥ってしまうのか。それは「本」が読めないからだ、とされます。正確にいうと「本の読めなさを読めていない」からです。本と自分の区別がついていない。だから、すべて読めた気になってしまう、すべてわかった気になってしまう。そんな人たちについては、「批評家」「専門家」として批判され、彼らの欲望についてはラカンの「ファルス的享楽」という用語で説明されます。

最後にまとめとして、この本の最も有名な部分を引用してみましょう。文学は終わらない、我々には革命が可能である、と高らかにうたいあげる部分です。

さあ、われわれには革命が不可能であると考える理由は、何一つなくなりました。何も終わらない。何も。

さて、切手本を読まれた方はぜひ、前著の『夜戦と永遠』もお読みください。いま現代思想ではフーコー、そして霊性、スピリチュアルについて議論されていますが、その辺りの論点についてもしっかりと論じられています。それでは終わります。

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