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68頁目 成城店 Hさん②


神保町本店での思い出や周辺のお店、現在行っているフェアなどを
100日紹介する<三省堂書店神保町100頁日誌>。
本日は成城店Hさんにお話を伺いました!

沢山お話を聞かせて頂いたので3日にわけてあります!


Q2.当店で働いていた時の印象深い思い出を教えてください。

1.宮沢りえさん写真集発売 

 1991年10月中旬の朝日、読売他大手新聞の全5段に当時人気絶頂、18歳のアイドル宮沢りえさんのヌード写真集が次月発売される広告が掲載された。日曜日の開店前なので通常は各フロア従業員が書評のチェックに余念がないはずであるが、その日はそれどころではなく、まずは事実確認からである。当然電話は繋がらないが、まさか誤報ではないだろう。当時はそれほどの衝撃をもって伝えられたのである。その後、店は蜂の巣をつついたような大騒ぎでとなった。店頭、電話を問わず、予約、問い合わせがひっきりなしであったと記憶している。客注伝票も確か専用のものを用意したはずである。また専用伝票が埋まっている時は通常の伝票に書名は〇にみとのみ省略して書いた次第である。正式帳合は日販であったが、希望部数を確保すべく日販、トーハン折半で仕入れたと記憶している。発売当日の11月13日もレジでの混雑を避けるため別途販売専用ブースを用意して対応したはずである。実売155万部は今も写真集の売上最高記録と聞いている。私個人としては宮沢りえさんのファンでもなかったのでこの時は強いて購入しようとは思わなかたが、一年後に貴花田(後の貴乃花)と婚約するに当たり、将来の相撲部屋の女将さんの若かりし頃の秘蔵ヌード写真集ということもあり、急遽購入したものの、2ヶ月後に婚約破棄。今も本棚の中の多数の相撲雑誌の中にお宝?として埋もれている筈である。



2.中井貴一さんサイン会

 2004年2月のある日曜日、中井貴一さんのエッセイ刊行を記念してのサイン会を行った。当然、整理券は既に完売していて盛況が確実視されていたが、直前に日本アカデミー賞最優秀主演男優賞受賞が決定してさらなる混雑が予想された。果たしてサイン会当日はサイン会参加者以外の店内のお客様と数多のマスコミで会場周辺は押し合い、圧し合いの大混雑となった。会場整備に当たっていた私と数人の従業員は中井さんと参加者を区切っていたポールを掴んでお客様が前のめりになって将棋倒しにならないよう必死に身を挺して事故を防いだのであった。今思い返しても何事も起きなかったのが不思議な位である。後にも先にもこれ以上の経験をしたことがない。



3.神田村雑感

 神保町界隈周辺も再開発が進んで今は数えるほどしか残っていないが、30年前には専門取次である神田村全盛期であった。特に人文の鈴木書店、文庫の東邦書店、ビジネスの明文図書の担当者には大変お世話になった次第である。また同じ版元であってもジャンル毎に取次が異なっており、角川書店(当時)や中央公論社(当時)は一般書や文庫・新書で複数の帳合を活用していた。1992年当時、2Fで新潮文庫の担当(当時の文庫は社員4人、アルバイト2人で版元毎に担当が別れていた)をしていた私は、毎日一覧表で400冊の欠本を午前中にチェックし、東邦が昼に一覧表を回収、夕方に納品というスケジュールであった。ただし午前中に欠本が終わらず、昼過ぎに東邦まで走って行って一覧表を届けることも度々であった。それでも夕方の納品には間に合わせて頂いて今も感謝の念に堪えない。またまる配と言って急ぎの商品を神田村に赴いて日々仕入させて頂いたことも今では懐かしい思い出である。



4.コンシェルジェ雑感

 2000年頃、1F上りエスカレーター前にはインフョメーションカウンターがあり、そこに経験豊富なベテラン社員を交代制で複数人配置し、お問い合わせ対応を行っていた。専用のブレザーを着用し、コンシェルジェのロゴの入ったバッチを胸元に付けられていた。現場担当としては大変助かったし、懇切丁寧な対応、豊富な商品知識はお客様から感謝されることも多々あったと記憶している。人と人の折衝が希薄になりつつある現在こそ、お客様に寄り添った形でのコンシェルジェ復活を切望する。特に神保町本店には中高年のお客様が多くし書肆検索端末に不案内な人が多いと思われるのでなおさらそう思わずにはいられない。



5.出演テレビ視聴

 余談として神田本店(当時)時代の仕事終了後のエピソードを一つ書いておく。1992年5月4日にオンエアされたとあるテレビ番組に出演させて頂いたことがある。当日は仕事終了後、7F食堂(現在のAB会議室)のテレビ前にスタンバイしたのであるが、最初は少人数であったものの口コミで多数の従業員が視聴することとなった。自身の姿をブラウン管を通して見るというのは何とも面映ゆいものである。まさか趣味が高じてテレビ出演が叶うなどということは想像する出来なかったゆえ未だに素晴らしい思い出として記憶に残っている。20余年ぶりなので最近の従業員は殆ど知らないかと思うが、神保町本店での思い出ということで書かせて頂いた。


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