貝塚寺内町の歴史シリーズ「戦国三大武将と貝塚」

戦乱の時代、一向宗の門徒が作り上げた自治都市「貝塚寺内」。町を率いる卜半斎は、天下統一を目指して迫りくる戦国武将と、どう向き合ったのか。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、全3話の構成で解説。

第1話「織田信長と貝塚寺内町」

織田信長像『肖像』より 国立国会図書館ウェブサイトより転載

        「織田信長画像」 国立国会図書館ウェブサイトより転載

 戦国時代末期、天下統一を目前にした織田信長にとって最後の難敵は、中国地方に勢力を持つ毛利一族、そして、畿内や北陸で根強い勢力を保持する一向衆ならびに彼らを束ねる本願寺であった。本願寺は、親鸞から数えて第8世の蓮如が、文明3年(1471)越前吉崎に御坊を築いて以来、各地で教えを広げて信徒(一向衆)を増やし、在地の豪族の後ろ盾を得ながら勢力を拡大していった。信長の時代には、第11世の顕如が大坂石山(現在の大阪城の地)に本拠を構え、もはや戦国大名と同等の軍事力を持つに至っていた。

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                     「顕如上人画像」 願泉寺蔵

 元亀元年(1570)姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を破って勢いづいた信長は、本願寺顕如に対し宣戦を布告してきた。これに対し、一向衆は伊勢長島で迎え撃つも大敗、その後形勢は徐々に信長側に傾き、天正4年(1576)ついに顕如は、石山籠城を決意する。反信長連合の毛利輝元は、すかさず顕如を支援するための兵糧米を送り、米俵が泉州貝塚の浜に陸揚げされた。米俵は、一向衆やこれを支援する根来・雑賀衆らによって、何とか大坂石山まで運び込まれたのである。

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       「石山合戦陣地図」 国立国会図書館ウェブサイトより転載

 この頃の貝塚は、一向衆のまちとして本願寺勢力の拠点となっていた。天正15年(1587)に記された「貝塚寺内起立書」によれば、天文14年(1545)在地の門徒衆は、京都の落人であった右京坊(卜半斎了珍)を根来寺から貝塚に迎え、一向衆の自治都市「寺内町」の建設が始められたという。

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                    「卜半斎了珍画像」 願泉寺蔵

 天文19年(1550)には本願寺第10世の証如から「方便法身尊像」(阿弥陀如来画像)が下付され、天文24年(1555)には本願寺から「寺内」に取り立てられる。町の立地や経済力、そして卜半斎の人徳と才力によって町は栄え、次第に石山本願寺の重要な支城として、顕如の信頼を得るようになっていたのである。

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                     「方便法身尊像」 願泉寺蔵

 貝塚が本願寺にとって重要な戦略拠点であることは、信長も十分承知するところであった。天正5年(1577)信長は、和泉・紀州に対し総攻撃を開始した。織田軍の先陣は実子の信忠、まずは最大の標的である貝塚に攻め込んだのである。貝塚の町は容赦なく焼き討ちにされ、焦土と化したという。
 ところで、近年実施されている埋蔵文化財発掘調査によれば、寺内町区域の地層には、どこからも焼土層が確認されていない。つまり、町全体が炎に包まれたとは考えにくいのだ。また、卜半斎は町民を船に乗せて浜から沖合に避難させたという。案外、貝塚の被害は最小限度だったのかもしれない。

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                   「慶安元年寺内絵図」 願泉寺蔵

 和泉・紀州を平定した信長は、本願寺との戦いの長期化を不利とみて、ついに和睦を申し入れ、顕如もこれを承諾する。天正8年(1580)石山合戦は終結し、本願寺は大坂石山の地を棄て紀州鷺ノ森へ移転した。戦乱を乗り切った貝塚では、信長から「寺内」の承認を受け、町の復興が始まった。寺内の中心には、板葺きの新しい本堂が建てられた。人々はこれを「板屋道場」と呼んだのであった。

一般社団法人貝塚寺内町保存活用事業団 https://jinaicho.org/


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