日韓併合は韓国側が望んだから?!

韓国が日本に併合されたのは韓国人自身が望んだものという言説。

肯定派の主張。
主張(1)韓国側が望んだから併合した
主張(2)韓国の政治組織「一進会」は日韓併合を強く主張していた。
主張(3)伊藤博文は韓国併合に最後まで反対していたが、安重根が
暗殺したことによって併合に繋がった


肯定派の主張(1)

韓国側が望んだから併合した

反証:ハーグ密使事件や義兵運動など、武力衝突を伴った明白な
抵抗が歴史的事実にある。

ハーグ密使事件(1907年)
オランダのハーグで開かれた万国平和会議に大韓帝国の皇帝高宗が
密使を派遣し、第2次日韓協約の無効を世界に訴えようとしたが失敗。
密使なのは、第2次日韓協約によって外交権を日本に奪われており
独自に外交を行うことができなかったからである。

そのため、日本に知られないように、密使の派遣となったが、このことを
知った韓国統監の伊藤博文は、これを口実に退位をせまり、皇太子を
即位させた。伊藤博文はこの好機を捕らえ、第三次日韓協約を提示して
合意を迫り承認させた。これによって、韓国軍は解散させられ、韓国は
外交権につづいて軍事権も失なった。

義兵運動(1907年)
第三次日韓協約により、8月1日に、韓国軍隊の解散式が行われたが
これに反発した軍の一部が反乱を起こし、それ以降、軍人で反乱軍に
加わるものが増え続け、義兵闘争と言われるようになった。
1909年にかけて朝鮮全土に広がり、さらに一般民衆も加わったが
日本軍に撃退された。
さらに、日本は軍隊を増強すると共に、同年9月から2ヶ月にわたる
「南韓大討伐作戦」を展開、1910年までにほぼ鎮圧した。
1907~10年に2,819回衝突し、日本側は133人の死者、義兵は
17,688人を殺害したと日本側の記録にある。
(日本陸軍「朝鮮暴徒討伐誌」)

反対者を鎮圧しておいて「望まれて併合した」というの強弁に過ぎない。

肯定派の主張(2)

韓国の政治組織「一進会」は日韓併合を強く主張していた。
一進会は、1909年12月に韓日合邦の請願を提出した。

反証1:一進会が「韓日合邦」を請願したのは事実だが、日本による
一方的な併合ではなく、対等な政治統合を主張していた。

一進会から、韓国統監府・曾禰荒助統監宛ての請願書が日本語訳で
東京に連絡されている。

我皇室の万歳尊祟の基礎を鞏固にし、我人民をして一等待遇の福利を
享有せしめ、政府と社会とをして益々発展せしめんことを主唱し、一大
政治機関を成立せざるべからず。
即ち、我韓の保護劣等に在るの羞恥を解脱し、同等政治の権利を獲得
すべき法律上の政合邦と謂ふべき一問題是なり。

日本皇室と政府と輿論とが、果して此を容るるや知るべからざるを以て
我二千万国民は一同之を訴求するの精誠を示さざるべからず。
嗚呼、幸に此を成立して両翼同飛、両輪共転の政治範図下に於て
生を欲して生を得ず、死を欲して死を得ざる我二千万国民は奴隷の侮蔑を
脱し、犠牲の困苦を免かれ、同等の伍列に立ち一新回甦し、前歩を試追し
実力を養成せば、前途の快楽を享有し、他日の活躍を得べきは確然明瞭なり。

海野福寿編「外交史料 韓国併合」

韓国皇室の基礎を強固にし、韓国人民に一等待遇を与えたい。
「保護劣等」すなわち、日本に外交権を取り上げられ内政にまで指示される
保護国の劣等、奴隷の侮蔑から脱出し、対等の権利を獲得するべく、合邦を
訴えた。
つまり、一進会が請願したのは、日本との対等な政治統合と、両国民の平等
だった。

反証2:実は日本人が仕組んでいた。

韓日合邦の請願を受け取り、その取扱いについて、曾禰荒助統監は、東京に
伺いを立てている。

明治四十二年十二月五日 午后六時二十分発 第三六号
日韓合邦に関する一進会上書の趣旨は、要するに
(一)韓国皇室の尊栄を日本皇室と共に永遠不朽に垂れんと欲すること。
(二)韓国をして世界一等国の班に列し、韓国民も日本人同様の権利幸福を
享受せしめんとする
の二点に帰着し、合邦の意味は連邦なるが如く、又、合併なるが如く見え
甚だ不明なり。

元来、此る大事を一進会如きものの行動に基き今日に実行せんとするが
如きは、徒に平地に風波を起し、其局を統ることなきに終るべし。
速成を欲して大成を壊るに至るは必然なるのみならず、延て我陛下の御威稜を傷けんことを恐る。
殊に内田は、韓人に対し此事に付ては桂首相、寺内陸相の密旨を受け来れる
ことを声言し居れるが如し。是れ最も憂うべきの事と存す。

海野福寿編「外交史料 韓国併合」

この「内田」なる人物は、黒龍会という右翼団体の主幹で、内田良平のこと。このことについて、憲兵隊から次のような機密報告がある。

憲機第二三六五号

今回一進会の発表したる声明書の主謀者は内田良平にして、同人が該書を
齎らしたることは蔽ふ可からざるものにして、発表後、以外にも国民および
政府の反対激烈なるため、殆んど今日にてはその成算に苦み居れりと。

而して昨日、菊池謙譲は内田に対し大要左の如き忠告を与へたりと。
一、 今日の事件は時機未だ熟せず、一般の反対を受け平和を破壊するの
みならず、平地に風波を起すものなれば、一進会の指揮は東京に於て之を
為さず、一切之れを京城に移し、且つ内田等は潔く関係を絶ち、間接に
一進会を援助すべしと。
二、 各会中声望あるは大韓協会なるを以て、該会に反対すれば到底希望を
満し能はざるにより、大垣丈夫と協議決定すべしと。

右二項の注告を内田は容れ、菊池の紹介に拠り大垣と正式の会見をなすこと
となり、本日午前十一時より菊池宅に於て会見をなしたりと。

海野福寿編「外交史料 韓国併合」

一進会の韓日合邦声明書を仕組んだのは、内田良平だと憲兵隊が指摘
しており、一進会の発表後、韓国内の世論に激しく反対され行き詰まっていると書かれている。

また、菊池謙譲(統監府の顧問)は内田に対して
「各会中声望あるは大韓協会」「大韓協会が反対すれば希望は通らない」
と言っており、大垣丈夫と協議して決定すべし、としている。
この「大垣丈夫」は、大韓協会の顧問で、一進会の声明から8日後に
韓日合邦の反対声明書を出している。

憲機第二四二九号

来る十二日、大韓協会に於ては漢城府民会を会所と定め、国民大会を開き
時局問題に関する声明書公布する
準備中に在りしが、昨日、同会の重なるもの本部に協議の結果、近くその
声明書を各新聞帋に因り公布することに決定せりと云ふ。

声明書左の如し。

      時局に対する声明書

凡そ政治の目的は国民多数の幸福を期図するにあり。
故に国民の幸福に基き多数の希望に副へる場合に於て、あるいは韓日の
関係を改定するは固より本会の異議なき所なりといえども、今日、一進会が
突如、日韓合邦の実行を迫るが如きは我国情を顧ざる軽挙にして、多数の
民意に反するのみならず、為に国民の反抗心を挑発し、両国の親交と
国家の進歩を阻害すること鮮少ならざるものと認む。

海野福寿編「外交史料 韓国併合」

また、一進会顧問の杉山茂丸が桂首相から、次のような内訓を受けていた。

本日、桂侯爵より拙者へ左の内訓ありたり。

一、 一進会およびその他の合邦意見書はその筋に受理せしめ、合邦反対
意見書は悉く却下し居ることを了解すべし。
二、 合邦論に耳を傾くると然らざるとは日本政府の方針活動の如何に
あること故、寸毫も韓国民の容喙を許さず。
三、 一進会が多年親日的操志に苦節を守り、穏健統一ある行動を取り
両国の為め尽瘁し来りたるの誠意は能く了得し居れり。

右の三条は尚ほ当局の誤解なき様、その筋に内訓を発し置くべし。
右の内訓を聞くと同時に、拙者は一進会に左の事を開陳すべし。

一、 一進会の誠意は巳に十分日本政府に貫徹し居れるを証すると同時に
頗る同慶の意を表すべし。
二、 一進会が政治を批議するの状態は、過漫放恣にして毫も保護国民の
姿なく、その不謹慎の言動は頗る宗主国民の同情を破壊するの傾あり。
三、 常に党与の間に動揺の状態を以て間断なく空論に属する政治意見を
掲げ、総て不遜の言動を以て政府の政治方針を己れの意見通りに左右せんとするの観を示すは、頗る戒飭を要すべし。
四、 政治を論議する志士にして、官吏に対する感情より常に梗概を説くは
耳を傾くるの価値なきを自覚せらるべし。

一進会にして右等の事を知了せずして尚ほ言動を擅にせんと欲せば、拙者と
関係を絶ち、自由の行動を執らるるは随意たるべし。
明治四十三年二月二日

海野福寿編「外交史料 韓国併合」

親日的な行いや誠意は評価するが、日本政府の方針活動に韓国民が
ほんの少しでも、横から口を出すなど許さない、などと書かれている。
このように「韓国に望まれた」というのが嘘だというのがわかる。

内田良平や菊池忠三郎が一進会を操っていたことや合邦論が韓国内で
不評だったことが書かれている資料が以下で確認できる。
(42ページ「菊地忠三郎ノ行動」)

隆煕4年〔明治43年〕1月7日から〔明治43年〕2月18日
原文:国立公文書館アジア歴史資料センター Ref. B03050610500

反証3:そもそも韓国併合の方針を日本が閣議決定したのは
1909年7月6日。一進会の請願(1909年12月4日)より以前の事で
時系列が逆である。

1909年7月6日 「韓国併合に関する件」が閣議決定された。これは
韓国併合を正式に政府方針とした文書で、次のようにある。

第一 適当の時期に於て韓国の併合を断行すること。韓国を併合し之を
帝国版図のー部となすは半島に於ける我実力を確立する為、最確実なる
方法たり。
帝国力内外の形勢に照らし、適当の時機に於て断然併合を実行し、半島を
名実共に我統治の下に置き、且韓国と諸外国との条約関係を消滅せしむるは
帝国百年の長計なりとす

日本外交文書 42巻第1冊

このように、「日本が望んで併合した」というのが、はっきりわかる。

肯定派の主張(3)

伊藤博文は韓国併合に最後まで反対していたが、安重根が暗殺
したことによって併合に繋がった

反証:併合反対だったのは事実だが、最後は賛成にまわり、日本政府は
韓国併合の方針を閣議決定した。

1909年10月26日に伊藤がハルビンで韓国の民族(独立)運動家、安重根に
暗殺されるが、先述したように、1909年7月6日に、韓国併合を方針とした
閣議決定をしている。暗殺より前に方針が決定しているので、暗殺が
併合決定の直接の原因ではないことは明白であり、伊藤博文が最後まで
併合に反対していたのも嘘である。

まとめ

◆反対派を鎮圧して併合したに過ぎない
◆「一進会」の裏には日本人、求めたのは同等の併合で、請願より前に
日本は併合を閣議決定していた
◆伊藤の暗殺以前に、日本は韓国併合を閣議決定しており、伊藤が
最期まで併合に反対だったのは嘘