走れ、モンスターたちよ、悲惨の明日に向かって
排気口新作公演『呼ぶにはとおく振り向くにはちかい』の観劇感想。
脚本・演出の菊地穂波氏が台本を近々に発売する予定であるそうなので、あらすじはそちらを見ていただくとして、こちらでは考察を行いたい。考察を論じる関係で少なからずネタバレが含まれるので注意されたい。
この演劇を見て僕が抱いた感想は、「倫理的な劇ですばらしい」というものだった。これは菊地氏に私が真っ先に直接伝えた感想である。
ここで僕が「倫理的」と評している理由は、第二次世界大戦の悲劇と平和の尊さやホモセクシュアリティがモチーフとして扱われているから、ではない。そうではなく、人間を単純化せず、人間が本来的・不可避的に有する引き裂かれた多面性を認め、その清濁を併せ吞んで描いていること、そしてそうした人間が他者として立ち現われてくるときに、それを容易に理解可能な存在としては描かず、理解不可能な対象として突き放したうえで、それでもなお他者と共存できる可能性をテーマにしていると感じたからだ。
今の私、化け物みたい
人は誰でもモンスターである。あるいはモンスターを飼っている。ホモセクシュアルのドロミは「心と体がバラバラだ」と悩んでいるが、海峡は教師としての規範に適合的な実践的自己と、若い(幼い)女性に性的な反応を催す肉体との間のアンビバレンスと格闘しているし、またワンコも魔法少女になりたいという子供の頃からの欲求と現実の齟齬を埋めたいと願い続けている。教育実習生のユカにも、満たされない、男性への尋常でない渇望がある。
いささか大胆だが、こういった欲望を「夢」と言い換えてみてもよいだろう。夢はモンスターである。現実の自分、すなわち存在論的な肉体と日常を、死なない程度に食らいながら、呪いのようにしつこく付きまとう。現実と夢のせめぎ合いでは、夢の方が現実を屈服させて一方的な勝者になることはあり得ない。他方、現実存在が夢を完全に消し去ることもできない。いや、消し去るどころか、むしろ劇中では「起きているときに見る夢」を持ち続ける覚悟が強調される。現実の方も、夢という怪物を食らわなければ生きていけないのだ。望むと望まざるとにかかわらず、実存が引き裂かれて不定の状態まま、怪物を飼いならしながら人は明日の扉を開き大人になっていくしかない。
この引き裂かれた多面性というテーマは、爆弾の衝撃で成仏できずに地縛霊となった猿田にも例外なく適応されている。猿田は、仲良くなったセルセに、かつて自分が見た夕暮れのように真っ赤で美しい「空襲の空」をいつか見せてあげたいと述べる。この発言は、猿田がセレセへ別れを告げる際の、「私は振り向いてもそこにはいない。だって私は前に、明日にいるんだから」という、文字通り前向きな言葉の直前でなされる。甘美で未来志向的な嘘で美しく締めくくられていくクライマックスのなかで、戦慄するほど恐ろしい発言である。僕はこの猿田の発言の演出意図が分からないと主催に訊いたが、これは稽古の段階で付け足した台詞であるそうだ。なるほど猿田もかつては人間であり、多面的に引き裂かれた存在であった。そのうえ、永遠に自分が参加できない他人の修学旅行の初日だけを体験する永遠の煉獄にいるのだ。自分の置かれた悲劇の方に生きている人間を呼び込みたいというのも、素直な欲求、他者には理解されない気持ち悪いモンスターとしての夢なのだろう。
起きている時に見る夢/寝ている時に見る夢
夢と言えば、猿田は、劇中劇が開始するとそこから疎外されるかたちで、眠る、あるいは猫になって人間的な状況把握能力を失う。つまり、猿田が眠って見ている夢と、教員たちが起きて見ている夢が対比的な構造を取っている。この構造をどう考えればいいのか、僕はいまひとつ整理がついていないが、他の人々が演じている劇中劇が猿田が眠りながら見ている夢である、と考えるよりも、他の人間によって劇中劇が行われているときに猿田は非現実=夢へと追いやられている、と考える方が妥当だろう。劇中劇は、登場人物が現実から解放されて自由に振舞うことが許された場である。教員たちはそれぞれ勝手に自分の欲望を劇中劇に投影しようとする。猿田も劇中劇に「猫」あるいは「猫型ロボット」として出演したいと言う。だが、劇中劇で自分の夢を「実現」させるとことは、結局誰にも叶わない。叶わないという点では、猿田も他の教師も同じである。しかし、猿田が、劇中劇(夢A)から予め疎外されて睡眠(夢B)に追いやられているのは、他の教師とレイヤーが異なる現象である。おそらく、劇中劇はあくまでも現実を駆動させる装置としての「起きている時に見る夢」のための舞台であるから、死んでいる猿田はどうやっても参加できないのだ。猿田が半醒半睡で劇中劇のリハーサルの最中の人々の写真を撮ることと、猿田が猫化していることとの整合性も、猿田が「撮っていること」の奇妙さに目が行ってしまったが、猿田が参加できず「写っていないこと」に演出意図があるのだろう。
関係のない、物語、としての戦争
ところで、劇中劇に入れないのは、チョビタとレミコも同様である。チョビタは他の教員の劇中劇の役回りを否定して書き換えようとしているので別としても、レミコがそこから終始排除されているのは興味深い。レミコが「ビッグチョキ」を予行演習として披露し劇団の家族を怖がらせるシーンは、単なるナンセンスのようでいて、考えさせられる。ビッグチョキは、ピースサインと同じ所作ではないだろうか。戦争体験を知らず、平和を自明のものとして享受している現代人が行うピースサインの奇妙さと、文脈なしにビッグチョキを見せる奇妙さは同根なのではないか。「リハーサル中にピースなんてしないだろ」とチョビタに言われて、「するんじゃないですか?楽しかったら」と答えていたのはそういうことだろうか。レミコは、「尾木ママのこと以外はみんな嫌い」だと言いながら、誰よりも心の底から平和の喜びを感じているのか。本来の平和劇の世界に整合的であり過ぎるため、他の教員のような歴史を無視した夢の群像に参加することができないのかもしれない。
平和に関連して、チョビタがこだわった、戦争を経験していない教師たちも戦争の歴史を語り伝えていくことができるはずだ、という思想についても考えてみたい。他の教師は、「経験していないから戦争を伝えることは無理だ」と言う。これは、他者理解の不可能性を示唆するものとしても当然効いてくる発言である。経験したことしか理解できず、したがって伝えることもできないという考えは、ある意味では正しく、そして間違っているだろう。歴史は自己の直接体験と同様の生々しさをもって理解することはできない。だが、人が物語を理解できる限度において、理解可能であるし、その限度で伝えることができるだろう。ただ、ここで問題になるのは、物語にさえなれない歴史があり得ることである。
物語は関係性の存在を前提として成立する。ヤナギダは、戦争は命だけを奪うのではない、時間も奪う、戦争の悲惨さは、時間も奪われること、時間を奪われた人を、残された人々が悲しみでまとめることしかできないこと、だと言う。「時間を奪われる」の意味は、その時点の意識とその後の可能性としての生涯、すなわちその人の物語ということだろう。大規模な殺戮は、例えば家族を丸ごと殺してしまう。特定の人だけでなくその人と関係性を持った人までもまとめて殺されると、語られる者だけでなく語る者も消失し、結果その人の物語が喪失する。残された人々は根こそぎ奪われた多数の生涯を、漠然とした「悲しみ」の感覚で片づけるしかない。そこに戦争という歴史が持つ固有の悲惨さがあるのだ。チョビタが語った、経験しなくても戦争を理解し伝えることはできるという考えは、物語として機能する残存部分においては可能だが、大規模殺戮という戦争の本質的な悲劇を伝えることは原理的に不可能と言えそうだ。
ところで、ヤナギダの発言、「私も猿田ちゃんの時間です」は、猿田が霊として体験する永遠に終わらない孤独な時間の一部に彼が取り込まれていることを示唆する。猿田の時間は戦争によって奪われているはずであり、また現世の人間は猿田の永遠の煉獄を語ることは不可能なため、ヤナギダの言葉を額面通りに解釈するならば、彼は存在しない時間、存在しないはずの物語へと取り込まれていることになる。猿田を自分の仕事の中心に据えて最優先に考えるヤナギダの話は、淡々と語られるなかに怪談的な不穏さが感じさせられる。
おわりに
群像の同床異夢というモチーフは、以前の排気口の作品の『午睡荘園』のそれとも共通しているが、今作は、死者は死者の夢を見るが、生きている者と枕を並べることはできないということで、「夢」が有する機能について新しい視点が加えられたように思う。夢は戯れに微睡むためのものでもありながら、残酷にこちら側を侵食するものでもあり、そして無慈悲に明日へ突き向かわせる原動力なのだろう。呼ぶにはとおく振り向くには近いものとは、はなんだろうか。それは現実だと僕は思う。現実に追いつかれないよう、走れ。だが明日で待ち受けているのは、作られなかった物語である。深淵に飲み込まれないように覚悟をするのだ。分かり合えない他者と確認せよ、そして作っていけ、お前だけの物語を…(ウーンむにゃむにゃコローン…)
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