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【連載第219回】コロナ禍での「生(なま)」の経験とは?――本屋でのオンライントークと演劇

前回はこちら。以前の連載は、人文書院の特別サイトもしくは書籍(『希望の書店論』、『書店と民主主義』)にてご覧いただけます。

コロナと本屋でのトークイベント

 9月30日に、緊急事態宣言が解除された。コロナ禍終息への第一歩と寿ぎたい気持ちが今は強いが、第6波の予感もあり、今年はじめの感染爆発の契機ともなった「年末年始」へと向かう中で、楽観は許されないだろう。

 もしも幸いにしてコロナ感染が落ち着いていったとしても、「アフター・コロナ」の世界は、「ビフォー・コロナ」とは大いに様相を変えるだろうという声は多い。「リモート・ワーク」の増加、定着もその一つである。デジタル回線の普及とIT機器の進化が相俟って、そしてそれらを更に伸長したい政府や関連企業の思惑もその背景にあったのだろう。多くの自宅が職場化した。そのことの是非、社員の家庭が職場化することによる労働者、管理職、経営陣それぞれにとっての是非は、とりあえず置こう。われわれ書店員をはじめ、来店客の応接が職務の大半を占める小売業の店売部門には、さしあたりその趨勢は当てはまっていない。だが、他と同様の変化が起こった部門は書店にもある。著者等によるトークイベントが、その一つである。

 2020年も2021年も、ジュンク堂書店難波店では緊急事態宣言の狭間に、数度に渡ってトークイベントを開催してきたが、宣言が度重なり、期間も長くまた延長も繰り返される中、さすがに企画することも難しくなってきた。ぼくが副店長を務めていたゼロ年代、最も過密な時期には2日に1回くらいの頻度でトークイベントを開催していた池袋本店では、昨年からオンライントークに切り替えている。ぼくもその仕組みに便乗させてもらい、齋藤幸平×生田武志、そして小笠原博毅×福嶋聡のオンライントークを実施した。

 オンライントークには、オンライントークのメリットがある。登壇者及び観客を、書店店頭などの会場に集める必要がない。語る側も聞く側も、「在宅」で参加できる。登壇者を呼び寄せる経費も、観客が会場まで行くための交通費も節約できる。お金だけでなく時間も節約できるから、参加者の枠を広げられることも確かだろう(会場のキャパシティを考える必要もない)。アーカイヴされれば、後日に見たり見直したりすることもできる。何より、感染対策が万全となる。


オンライン演劇は可能か?

 だが、何事も「いい事尽くし」というわけにはいかない。オンライントークには、リアルのトークイベントから漏れ落ちてしまうデメリットもある筈だ。そのデメリットを考えるために、ぼくは以前から気になっていたある座談会の記事を読んでみた。『表象15:配信の政治――ライヴとライフのメディア』(月曜社、2021年)に掲載された、「オンライン演劇は可能か 実戦と理論から考えてみる」である。演劇もまたリアルが基本で、コロナ禍によって、上演したものをネット配信で観客に届けるという方法を取らざるをえなかったイベントだからである。

 最初に、司会役の横山義志(SPAC-静岡県舞台芸術センター、東京芸術祭、学習院大学、西洋の演劇史)が、「今、オンラインで行われている演劇作品の意義とは何だろう、それから、では逆にこれまで時間と場所を共有することによって生まれていた意義は何だったんだろう」(P23)と、座談会のテーマを表明、自ら次のように敷衍する。

「今のいわゆるオンライン演劇というものは、その系譜*上で見れば「シアター」にはなりうる。「ホームシアター」も「シアター」とは言えるわけですね。ただその部分は、実は今は映画なりテレビなりに代替されている」(P24)

*観客を舞台上から排除する第四の壁をつくり、絵画をモデルとして舞台をタブローにしていってそこに没入させるという演出。

「(第二次世界大戦〜60年代)、商業的には映画やテレビの方が効率がよくなっていき、その分、「生(なま)」の舞台をやるには別の理由が必要になっていく。だから、ここ一世紀ほどの演劇作品は往々にして「目の前に生身のひとがいるということが大事なんだ」という価値観を前提にしてつくられているわけなので、そのままオンライン配信したらつまらないのは当たり前で、じゃあどうするのか、というのが今後の課題なのではないか」(P25)

 この問いに、演劇ジャーナリストを経て現在はベルギーのアントワープ大学で演劇、パフォーマンス学の専任講師を務める岩城京子が簡潔に答える。

「結論からいうと、スクリーンの向こうにいる観客との関係論を考えないで、視覚情報だけの配信芸術になってしまった時点で、演劇という芸術は、多分、敗北するのではないか」(P27)

 両者とも、映画やテレビドラマと同じやり方で演劇を配信しても勝ち目はない、と言っている。横山が「演劇作品は、目の前に生身のひとがいるということが大事なんだ」という価値観が前提」というのも、岩城が「スクリーンの向こうにいる観客との関係論を考えるべき」と言っているのも、同じ演劇の本質を語っていると思う。

 ベケットの研究・翻訳から、現場・実践に移った長島確も、「当たり前ですが、そもそも演劇は映画的なフレーミングやつなぎで成立していないわけです。劇場で、演劇の演出家や俳優たちが劇場空間というメディアに最適化して作っているものを、全然別のメディアであるカメラを通した中継にするのなら、それに合わせて別の演出をしないと、演劇としても映像としてもクオリティが下がるようにしか見えないでしょう」(P35)と、劇場空間というメディアとカメラというメディアが全く別物であることを指摘している。


なにがオンラインを「生(なま)」にするのか

 カメラを媒介にした段階で、「生」ではなくなる。配信という作業が加わると、同時性も担保できなくなる。リアルタイムで見ても、アーカイヴで録画を見ても、見聞きするコンテンツは、ほぼ或いは全く同一だからである。そうなると演劇は、「生」であるという最大のアドバンテージを発揮できなくなるのだ。オンライン配信で、そのアドバンテージを取り戻す方法はあるのだろうか?

 そのためのヒントとして、岩城がコロナ禍中のある経験を提出している。岡田利規の、画面上の向う側にある机の上で能を上演するというオンライン配信作品『未練の幽霊と怪物』鑑賞時のことである。「机の向こうに借景として映る窓の外の人の流れとか、机上に浮かんでぷかぷかと動くモビールとか、観客に視覚の選択肢が明け渡されていること、つまり映像カメラは固定化されていながら、こちらに民主的な視座が受け渡されているという意味で、すごく演劇的な体験」(P36)だった、と言うのである。

 普通に考えれば、観客が意識を集中させるべきは、即ち岡田が見せたいのは「机の上の能の上演」であろう。だが、岩城は、それ以外のものが視覚に入ってくることを「民主的な座が明け渡されている」と感じ取り、それを「すごく演劇的な体験」と呼んでいるのである。

 ひょっとしたら岡田じしんも、そうした可能性に期待をかけていたかもしれない。しかし、少なくとも、それを岡田の意志で達成する、すなわち岡田の意志でその体験を観客に強いることは出来ない類の体験であった筈だ(そうでなければ「民主的な座が明け渡されている」とは感じないだろう)。上演にあたって、製作者、演出家、そして俳優も、それぞれのプランをもち、それを磨き、観客に伝えようとする。しかし、皮肉なことに、演劇を演劇たらしめるのは、それらのプランを逸れ、裏切る瞬間なのだ。

 それを偶然性の優位と呼ぶか、「一回きり」の絶対性と呼ぶか。いずれにせよ、つくる側の意図を逸脱した要素、あるいはその可能性を、見る側が発見あるいは予感できるときに、そのパフォーマンスは演劇性、「生」性を持つのである。

オンライントークイベントならではの工夫はできる

 同じことを、オンライントークイベントにも適用できるのではないか?

 ZoomやYoutubeの画面を介した時も、登壇者が今語っているという臨場感、緊迫感が伝わる方が、見ていてスリリングなのではないか? 相撲や野球の録画を見るとき、もしも勝負の結果を知らなくても(つまり放映を見る自身の前提と環境が同一と言えたとしても)、リアルタイムで見るときの緊迫感はどうしても持てないのではないだろうか?実際にリアルタイムであったとしても「録画だ」と告げられたり、思ったりした時もそうかもしれない。画面に映るものは、実況中継も録画も、実は同じだからである。

 だとすれば、今実際にリアルタイムで登壇者が語っているのだということを視聴者に知らせる仕掛けが、必要なのだ。そのためには、イベント自体が、イベント主催者の「意のままには進まない」必要がある。それには、岩城の「民主的な座」という表現が示唆しているように、イベント自体が視聴者に開かれていなければならない。

 岩城のオンライン演劇体験の例では、「開かれ」は視聴者が主催者の意図しない部分を見ることに留まっていたが、オンライントークでは、より能動的な視聴者の関与が可能である。演劇と違って、トークイベントでは、観客から質問したり、感想・意見を述べることが可能だ。リアルのトークでは、大抵一通り登壇者のお話が終ってから質問などが募られる。トークの最中に客席から口を挟むのは、主催者としてもやはり差し控えて欲しいが、オンライントーク中にチャットの書き込みをすることに、問題は全くない。オンラインにおけるいささかの距離感が、この場合プラスに働く。視聴者は、トークの最中でも、すなわち登壇者の話が終わったり司会者による募集がないときでも、その時々に心に浮かんだ疑問や意見を書き込む事ができるのだ。

 視聴者にとってのこのメリットを、主催者側も受け止めなくてはならない。書き込みの数によって取捨選択の必要が生じることはあるだろうが、少なくともその一部には、登壇者が対応するべきだろう。もちろん即答である必要はなく、最後にまとめてでもよいが、トークの流れの中での質問等であれば、その流れの方向が変わる前に取り上げる方がベターだ。登壇者が話しながら、あるいは対話をしながら常にチャット画面を注目するのは無理だから(というより、登壇者はいっさい見ない方がよい)、質問を拾い、選んでタイミングよく投げ込む役割の人が必要となる。それが自分の質問でなくても、同じ時に質問を投げた視聴者と登壇者の会話があれば、一気に「生」性を感じることができ、画面はスクリーンから劇場の「第四の壁」へと様変わりするのではないだろうか。

 それが登壇者がハッとするような質問・意見なら、なおいい。偶然性と緊張感は「生」性を高めるからだ。

 主催者側としては、難しい質問もなくスムーズに進行して無事終幕を迎えることこそ望むところかもしれないが、あまり予定調和的に進んでしまっては、面白くない。むしろ、時に食い違う意見がラインの端と端を行き来してこそ、トークイベントの醍醐味がある。主催者はその覚悟を持ち、肝のすわった姿勢で、「本番」に望む必要があるのだ。

 以上の工夫は、配信――つまり様々な器具と技術を使って遠くの観客に届けているにもかかわらず、目の前で行われているパフォーマンスであるかに思わせる工夫であったが、逆方向の工夫もありうるし、必要にもなってくる。すわなち、配信のために使われる道具を、効果的に使う工夫である。


「生(なま)」と編集性のはざまで考える

 舞台芸術における映像全般に携わる須藤崇規は、コンテンツの配信そのものの困難について、率直に語る。

「非常に困難な点の一つに、生であることと配信であることを両立させようとしているということがあります。(…)演劇はやっぱり生に最適化されているもので、それを今まで、僕は記録映像というものを通して映像に最適化し直す作業をしていた(…)配信だとそれが非常にやりにくいんです。生であることと配信であることを同時に一か所でやろうとすると。(…)目の前にお客さんがいる限りは、生への最適化を捨てることは絶対にしないので、やっぱり配信が後からついて行くことしかできなくて、そうなると配信に最適化するという作業がめちゃくちゃ難しいです。具体的にいうと、カメラを置く場所に困るとか。」(P32)

 中継の難しさである。最適なカメラ位置は、最適な観客席でもあるから、「生への最適化を捨てることは絶対にしない」とすれば、「カメラを置く場所に困る」のも当然だろう。登壇者の立場でいえば、カメラを見るよりも、客席を見る。マイクに向かってではなく、客席に向けて語る。配信映像の質にこだわれば、おそらく実際の観客はいない方がいい。

 一方、およそ「語る」という行為は誰かに向かって語りかけることであり、言葉による「対話」でなくとも表情や目や体の動き(動かないこと含めて)によって、話者は聞き手の反応を感じ取る。その反応によって、どんどん語りを前進させたり、少し立ち止まって説明したり、話の方向を変えたりする。語りかける相手が眼前にいないとそのプロセスは不可能であり、対談の場合は対談相手に意識が集中しがちで、ラインの彼方の視聴者は置いてきぼりにされかねない。

 観客がいるメリットといないメリットはトレードオフであり、先に挙げたチャットの利用などの工夫で「生」性と映像効果は様々にグラデーションを描く。おそらくベストは無い。

 前述の長島確の「全然別のメディアであるカメラを通した中継にするのなら、それに合わせて別の演出をしないと、演劇としても映像としてもクオリティが下がるようにしか見えない」という言葉の「別の演出」も、俳優の演技の質や方法を変えることというより、カメラという「道具」の能力や特性を十分に発揮できるように使うこと、それによって客席に座って同時進行している舞台を観るのとはまったく別ものの作品を仕上げることであろう。カメラなら、客席からは決して見えないアングルやズームを使うこともできる。複数台のカメラでスイッチングを駆使すれば、同時進行的にかつさまざまな角度からトークを撮ることも可能だ。もはや「生」性=同時性が最大のアドバンテージではないから、時間的な枠組も大胆に変更できる。

 「落語の一席を撮るとしたら、自分ならまず落語家が楽屋入りするところから撮る」と元MBSアナウンサーで、退職後「自分史」「社史」「ファミリーヒストリー」などを映像化する会社アンテリジャンを立ち上げた子守康徳が言っていた。オンライントーク配信では、トークの言葉を流しながら、資料映像、関連映像を「共有」しても、まったく違和感はない。

 リアルトークに近い「生」性と映画に近い編集性の間のさまざまなグラデーションのどの辺りを目指すのかを明確に意識し、意図に合った道具の使い方、編集を工夫していくことに如何に自覚的であるか、オンライントークイベントの成否は、そこに掛かっていると思う。


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福嶋 聡(ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)、『パンデミック下の書店と教室』(新泉社、2020年)。

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