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【連載第215回】演劇的コミュニケーションと平田オリザの実践(1)

前回はこちら。以前の連載は、人文書院の特別サイトもしくは書籍(『希望の書店論』『書店と民主主義』)にてご覧いただけます。

「対話」を必要とする地方

“まことに小さな国が、衰退期をむかえようとしている”。

 『下り坂をそろそろと下る』(講談社現代新書、2016年)の冒頭、平田オリザは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』をもじって、このように語り始める。日本はもはや、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と賞せられた経済大国ではない。明治の時代から、敗戦という挫折を経験しながらなお上り坂を駆け上がっていった国ではない。そして、かつてそうした国であったからこそ、今、下り坂を「そろそろと」降りる覚悟と知恵が必要なのだ、と平田は言うのだ。

 そうしたテーマの表明で始まるこの本の各章は、平田の演劇教育の実践の記録である。そして、本書が描く平田の演劇教育の場は、小豆島を含む香川県や愛媛県のいくつかの自治体、兵庫県但馬市、震災からの復興を目指す宮城県女川町と福島県双葉郡。いずれも、(地理的にも心理的にも)中央からは離れた場所である。現状では明らかに東京一極集中と思われる演劇実践の必要を、平田はこうした地域にこそ感じているのだ。

 但し、平田自身も、最初からそうした使命を自覚して動いたわけではない。平田自身は四国に招かれて赴いたのであり、その結果平田はその思いを持つに至ったのである。すなわち、四国(とりわけ瀬戸内海側)こそ、日本の演劇教育/コミュニケーション教育の最前線たるべき場所だったのだ。なぜ、そうなのか?

 四国は、日本の「本土」を形成する四島の一つである。とはいえ、四島の中では最西端の辺境ともいえる。更に西に九州があるが、鉄道網や道路網を見ても、海によって隔てられた四国は、東京など日本の中心との距離感が九州よりも大きい。ところが、その四国で演劇教育/コミュニケーション教育が火急の課題となった原因は、皮肉にも、その距離が小さくなったことにあるのだ。本四架橋である。

 “橋で本州とつながってしまった四国という大きな島は、これまで余り必要とされてこなかった「他者とのコミュニケーション能力」、もう少し詳しく言うなら、異なる価値観や文化的な背景を持った人びとにきちんと自己主張し、また他者の多様性をも理解する能力(=対話力)を必要とするようになった”(『下り坂をそろそろと下る』P33)のである。

 交通の便がよくなると、地方に人が来るようになる以上に、地方から「中央」に人が流れ出す。多くの、特に若い人たちが、進学や就職で、四国から流出していく。

 「この子たちはいい子たちなんですけど、他県に行ってからコミュニケーションで苦労するんです」と“香川県の教育関係者たちは口を揃えて言う”という。(同P33)


演劇による教養教育

 演劇がいわばコミュニケーションの芸術だということは、コラム第212回以降書き続けてきたことである。ドラマはコミュニケーションの不在から成立、成功と失敗、破綻のダイナミックな組み合わせで成立する。だから、創る側にとってはもちろん、観る側にとっても演劇経験は、コミュニケーション能力の自省・鍛錬のまたとない場なのであった。だから、四国という「辺境」で、全国に先駆けるような形で演劇/コミュニケーション教育が要請されて成立したのは、不思議ではないのである。

 一方、本四架橋を待つまでもなく、以前から演劇/コミュニケーション教育の伝統が四国にはあった。前回も引用した、小豆島の農村歌舞伎である。

 “今でこそ小豆島の人々もこれを「農村」歌舞伎と呼び、村落共同体の伝統行事と捉えているが、実際には、島の人々が瀬戸内海の各所から渡ってくる商人や船頭たちとコミュニケーションをとるための教養教育の場であったろうことは想像に難くない”(同P44)。

 小豆島を、本四架橋は通っていない。それは、橋がなくても、この四国地方最大の島は、古くからさまざまな人が行き来する島であったからだ(その歴史は、「意外な便利さ」を生み、今も四国や本州との行き来には不自由しないという)。小豆島には、昔からコミュニケーション教育の必要があった。それを担ったのが、農村歌舞伎だったのである。

 そのような事情が要請する演劇教育に、平田オリザはうってつけであった。見てきたように平田演劇は、コミュニケーションの不在、齟齬から始まり、そのことによって逆に劇中の登場人物同士、劇を成立させる俳優と演出家、舞台と観客席と、多層のコミュニケーションを成立させていくことに極めて自覚的だからだ。

 平田が関わる香川県善通寺市の四国学院大学の演劇コースは、“そもそも学長が「これからはコミュニケーション教育が大事だ」と考え、ネットで検索をして、私が大阪大学で行っている授業に関心を持ち、わざわざ自ら見学に来たことから話が始まった”(同P79)という。

 大阪大学での教育実践も、平田の次のような認識から、行われている。

“アメリカの大学は、そのほとんどがリベラルアーツ(教養教育)を基軸としており、そこには必ずと言っていいほど演劇学科が設置されている。この演劇学科は、もちろん専攻生向けの授業も出すが、それ以外に、他学部他学科向けにコミュニケーションに関わるような授業も出している。副専攻で演劇をとっている学生も多くいて、医者や看護師やカウンセラーなど、対人の職業に就く者は、それを一つのキャリアとさえしている”(同P79)。

 平田は演劇教育を、俳優・演出家・劇作家等実際に舞台を作っていく人たちの養成・訓練に限っていはいない。アメリカの大学同様さまざまな職業に活かせるような演劇の訓練を実践し、その市民権構築を目指している。日本ではまだ、アメリカのリベラルアーツとしての演劇の役割が実際に、また教師にも学生にも自覚されているとは言えない。だが、平田は四国学院大学の演劇コースのスローガンを、「地域の文化活動を担える人材を育成する」とした。それは、10年前にスタートした桜美林大学の演劇コースも同様だったという。

“進学してくるのは、ほとんどが俳優志望(あるいは声優志望)の生徒たちだが、しかしみなが俳優になれるわけではない。俳優になれなかったとしても四年間、大学で演劇を学んだことが、その学生の人生を豊かにし、また実際の就職にも結びつくようなカリキュラムを組まなければならない。それが、リベラルアーツにおける演劇教育の主眼である”(同P81)


坂道をそろそろと下りるための文化資本

 平田の構想と実践には、二つの重要な課題がある。それらは一見別々の課題に見えながら、相似形を成し、相互に強く関係している。

 一つは、地域活性化である。平田の盟友であり、『里山資本主義』(KADOKAWA、2013年)の著者藻谷浩介が帯に寄せているように、「経済や人工に先立つのは、やはり文化」だという信念で、平田は四国という、中央から最も遠い地域で演劇教育の実践に励む。それは、文化、とりわけ演劇に明らかに存在する中央と地方の格差を縮め、若者の流出を防ぎ、人口減による地方の弱体化を少しでも食い止めようとするものだ。

 一方、地方の危機は、実は日本全体の危機でもある。世界をグローバル化へと導いた交通機関の進化、そしてとりわけインターネットによって世界と架橋された日本から今、スポーツ、学術、芸術の分野の多くの力ある若者が流出している。ノーベル賞受賞者の多くが、海外在住者または海外経験のある人達であることを見ても、そのことは明らかだ。日本の世界における地位は、間違いなく低下し続けてきた。

 本四架橋が四国を襲ったのと同じかたちの影響が、今日の日本を襲っている。それに対峙することが、平田の演劇実践が纏う、もう一つの課題である。

 文部科学省も、「ゆとり教育」「生きる力」などのキャッチフレーズののち、思考力、判断力、表現力、主体性、多様性理解、協働性などをバランスよく養っていくことを重視するに至っている。平田によれば、それは社会学でいうところの「文化資本」であり、平易にいえば、「人と共に生きるためのセンス」だという。(同P106)

 その「文化資本」についてもまた、中央と地方では格差を生みやすい。しかも、「文化資本」は、経済格差のようにはっきりと数字として現れてこない上、各個人の中に長い年月を経て蓄積されていくものであるから、見えにくい。

 平田は言う。

“美味しいものを食べさせ続けることによって、不味いもの、身体に害になるものが口に入ってきたときに、瞬時に吐き出せる能力が育つのだ。

 骨董品の目利きを育てる際も、同じことが言えるようだ理屈ではなく、いいもの、本物を見続けることによって、偽物を直感的に見分ける能力が育つ”。(同P106)

 一朝一夕にそだつわけではないこの種の能力の熟成には、家庭環境も大きくものを言う。

“親が劇場や美術館やコンサートに行く習慣がなければ、子どもだけでそこに脚を運ぶことはあり得ない”。(同P109)

 「文化資本」を身につけるためのそうした経験へのアクセシビリティは、明らかに東京と地方では大きく違う。文科省の方針転換によって、たとえば大学入試においてもさらに中央と地方の条件格差が広がることが危惧される。平田の四国での演劇教育実践には、その格差拡大に少しでも抗おうという意図がある。

 地域活性化を図る平田の意図や実践は、同時に、日本人が「下り坂をそろそろと下る」のに必要な姿勢を手に入れるための意図や実践でもある。それは、ぼくが平田の演劇論に見出した、コミュニケーションとは何か、コミュニケーション成立のための条件とは何か、そしてこの時代に生きるために最も必要なものは何か、という問いに答えるための、大きなヒントなのである。

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福嶋 聡(ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)、『パンデミック下の書店と教室』(新泉社、2020年)。

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