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【連載第216回】演劇的コミュニケーションと平田オリザの実践(2)

前回はこちら。以前の連載は、人文書院の特別サイトもしくは書籍(『希望の書店論』『書店と民主主義』)にてご覧いただけます。

対話は相手を打ち負かさない

 平田オリザの演劇教育実践は、今日の教育課題と極めて強く共振している。

 「センター試験」に変わって今年からはじまった「共通テスト」に、当初文科省は、外部の業者テストの成績を反映させる、記述式解答の問題を入れるなどの「新機軸」を目論んでいた。それらの計画の多くは結局頓挫するが、改革志向自体は、平田の実践と重なる部分も大きい。

 もちろん、平田がそうした動向を察知して動いているわけではない。時代の方が平田に追いついてきたというべきだ。

 平田が大阪大学リーディング大学院での大学院生選抜試験で進めている仕事は、前回紹介した四国での演劇教育実践とは、いささか趣を異にする。後者は、地方の若者たち、子どもたちが、他の地方の人たち、とりわけ中央の人たちと共生(時に競争)するために必要なコミュニケーション能力を育むことを目標としているのに対し、前者は文字通りこの国のリーダーを育成すべく選別する場だからだ。だが、この一見条件も背景も違う場の両方に平田オリザが関わっていて、かつその際の方法論が基本的に同じであることに、注目すべきなのだ。

 大阪大学リーディング大学院の選抜試験の課題は、「臓器売買に関するステークホルダー(関係者)を洗い出してディスカッションドラマを創る」であり、四国学院大学の入学試験は、「本四架橋のうち二本を廃止し、一本だけを残さねばならないとしたら、どの橋を残すかを、関係各県の代表者が議論するディスカッションドラマを創りなさい」というものである。

 問題の基本構造はまったく同じと言っていい。四国ならではのローカル性はあるとはいえ、課題解決の困難さに、大きな差はない。

 また、どちらの場合も、ドラマ創作だからといって演技の優劣を競うものではもちろん無く、また、主張が相手を打ち負かし議論に勝利した者が有利なわけではない。平田は、それ ぞれの主張が明確であり、議論が活発であるようなディスカッションドラマを要求する。

 ドラマの創作であるから、受験生たちは協力し合う必要がある。ディスカッションドラマを創るためのディスカッションが必要となる。平田は完成したドラマよりも、その創作過程を見る。平田が注視するのは、そこに参加するために必要な対話の能力、そしてそもそも対話とは何かがわかっているか否か、なのである。

 対話とは、相手を打ち負かす技術ではない。全く違う背景や動機を持った二人(以上)が、語り合うことによって、一人ひとりが変わっていくことである。議論の参加者が予め用意した結論を通すことではない。何人もの参加者が、それぞれ違う主張をぶつけ合うことで、全員が納得する(言い換えれば、用意した議論に固執するならば全員が納得できないであろう)ゴールに至るプロセスなのである。だから、平田はディベートではなく対話劇の創作を要求するのだ。演劇とは、(通常)多くの登場人物の言動によって、誰もが予想していなかった終幕を迎える芸術だからである。

 そして、そうした性格の対話劇が成立するためには、全体を進行する役、時に決断する役、あるいは敢えて身を引く黒子役がバランスよく配備されることが必要であろう。それはドラマそのものについても言えるし、ドラマを創るためのディスカッションの場でもそうだ。対話劇を創るという作業は、そのように、二重の役割分担を必要としているのだ。

対話と民主主義――情報社会における問題解決の場としての大学

 大阪大学リーディング大学院選抜試験における実践の中で、平田は受験生に対して、次のようにアドヴァイスしている。

“作戦を遂行し、その責任をとるのは将軍ですが、参謀には別の快楽がある。もう大学院を卒業するみなさんは、そういった別のリーダーシップの在り方も、そろそろ身につけていった方がいい”(『下り坂をそろそろと下る』講談社現代新書、2016年、P93)。

 平田の言う理想的な対話劇は、民主主義の本来の姿と重なる。日本ほか多くの国が採用する議会制民主主義は選挙結果に大きく左右される制度であることから、どうしても票の取り合いが選挙民、被選挙者の関心の中心となり、議論もどれだけの賛同者を得るかという数の争いになりがちで、「あれか、これか」の多数決が民主主義と思われている節があるが、民主主義の要諦は、むしろ少数者の意見の尊重にある。少数者の尊重により、多数者の意見もより一般に適合するように調整されるプロセスを、民主主義というのである。多数者の意見が採用され、少数者の意見が無視されるのは、民主主義とは真逆の、全体主義と言うべきなのだ。民主主義的なプロセスは、全能の神ならぬ限定合理的な人間にとって、利害を異とする多くの人々の問題解決のためには、おそらく最上の政治制度と言えるであろう。歴史を振り返っても、全体主義や独裁主義よりは「ましな」方法であるという認識を、ぼくたちはチャーチルと共有しているだろう。

 そして、問題解決の場である大学という研究機関を形成するにあたって、登場人物の誰もが自己の主張を存分に行なう対話劇という平田オリザの出題は、当を得たものと言える。大学をめぐる環境の変化、大学の存在理由の変化は、問題解決の場としての、大学の本来の使命が復活、あるいは改めて見直されているのだとも言える。

“いまや、どんな情報も知識も、インターネットで簡単に手に入れることができる。そのことを大前提にしつつ、それでも「ここで、共に、学ぶ」ことが重要な時代になってきたのだ。もはや、学校の、少なくとも大学以上の高等教育機関の存在価値は、新しい知識や情報を得る場所としてではなく、共に学び、議論し、共同作業を行うという点だけになった”(同P94-5)。
“現在、ハーバード大学、MIT、あるいは日本でも京都大学などが、講義内容のインターネットでの公開を始めている。これは、MOOCと呼ばれ、多くの場合、インターネット上で誰もが無料で、その講義を受講することができる”(『22世紀を見る君たちへ』講談社現代新書、2020年、P68)。

“このようなネット時代を前提にして、しかしそれでも、ハーバードで一緒に議論をすることに異議がある。MITで、ともに学ぶことに意義がある。いや、もはや、そこにしか大学の意義はないと、世界のトップエリート校ほど考えている。

 だからそこでは、「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要になる。それは学生の質の問題だけではない。教職員も含めて、どのような「学びの共同体」を創るかが、大学側に問われているのだ”(同P70)。

 情報化社会の進展が人々の知へのアクセスを容易にし、大学のあり方、大学生のあり方、ひいては大学入試のあり様の変化を求めている。そのことは、大学という場への参加資格の変容を伴う。受験生の側から言えば、合格基準の変容である。すなわち、これまでは、同じ問題を解く能力によって序列が決められたのに対し、多様な役柄のそれぞれに相応しい能力を持った多様な人材が選抜されることになる。いわば、一つの主役の座を争って選ばれるオーディションではなく、一つの芝居を成立させる役それぞれに使う俳優を決定するキャスティングに近いものになる。

 演劇や映画のオーディションでは、選ばれる俳優は一つの役に対して一人だけだが、大学受験では、定員数だけ選ばれる。となると、キャスティング形式で、どの役を狙うかに頭を悩ませるよりも、定員数だけ選ばれるオーディション形式の方が、準備は楽であろう。平田らの実践は、試験する教員の方も大変だろうが、受験生にとってもとても悩ましいものではないか? 過去問を何回も解くというような、これまでの受験準備が、役に立たないからである。

最先端の入試で浮かび上がる身体的文化資本の差

 どの役を狙ったらよいか、という受験生の悩みについて、あるいは平田は、「どんな役をやっても、いい俳優はいい仕事をする」と答えるかもしれない。彼は次のようにも言っているからだ。

“私が何よりこの選抜試験U(大阪大学リーディング大学院選抜試験)で問いたかったのは、このように右脳と左脳をシャッフルするように使いながら、あるいは集団の作業と個人の作業を交互に挟みながら、それでも論理的な思考が保てるか、批評性が保てるかという点だった。単なるロジカルシンキング、クリティカルシンキングではなく、それがどのような局面においても「発揮できる」かを測る試験を作りたかった”(同P65-6)。
 欧米の有名大学では、すでに平田の構想する線での選抜試験がなされている。しかし、“「どのような局面においても能力が発揮できるか」を問う試験を行なっている大学は寡聞にして見つけることができなかった。私はどうせならオックスフォードやケンブリッジを超える最先端の入試を作りたいと考えた”(同P67)。

 そこで平田が行ったのは、共に学生を選抜する教員たちに『宇宙兄弟』(小山宙哉著、講談社)全巻を読ませることだった。“『宇宙兄弟』は、JAXA、NASAの宇宙飛行士を選抜し育成していく過程が描かれた漫画である”(同P67)。

“従来型の入学試験では、その時点での生徒。学生の持っている知識や情報の量を測って、たとえば上から20番までが合格、21番以下は不合格としてきた。しかし、JAXA、NASAの選抜試験はそれとは異なる。お互いの命を預け合えるクルー(=仲間)を集める試験である。

 そこでは当然、いろいろな能力が要求される。共同体がピンチの時にジョークを言って和ませられるか。明晰な判断力でピンチの本質を整理できるか、斬新な意見で共同体をピンチから救えるか。しかも、どんなにいい意見を言っても、日頃から地道な手作業などに加わっていないと信頼されない、などなど”(同P67)。

“おそらく、今後、日本の大学の入学者選抜もこのような、クルーを集めるタイプの試験に変わっていくだろう”(同P68)。

未来のあるべき大学のあり方についての平田の構想は、おそらく間違ってはいない。だが、一方でそれは、平田のライフワークともなっている、地方再生、地域間格差の是正に対しては、逆風となる。なぜなら、そうした「クルー」の資質は、本人の努力以前に、子どもたちが育つそれぞれの環境によって大きく影響されるからだ。

“しかしいま、文化の地域間格差と、経済格差の両方向に引っ張られて、子どもたち一人一人の「身体文化資本の格差」が急速に広がっている。しかも、それが大学進学や就職に直結する時代になっている”(同P95)。
”一生懸命努力する人も社会にいてくれないと困るが、コツコツと努力することは苦手だが発想の素晴らしい人や、何故か人を和ませられる人なども持続可能な社会には必要だからだ。しかし、そのために大学の選抜方法を改めようとすると、今度は、努力とは無関係の身体的文化資本を問うことになり、より格差が鮮明になってしまう”(同P97)。

 もちろん、その格差の頂点は、東京にある。

追記  平田オリザと「二人三脚」で豊岡市の演劇実践を推進してきた中貝宗春市長が、5期目を目指す選挙で敗れた。

→「豊岡市長選、現職中貝氏が苦杯 コウノトリ野生復帰などに奔走、市民には届かず」(神戸新聞)

何より、「演劇のまちなんかいらない」と主張する対立候補に敗れたことがショックである。

→「新豊岡市長に関貫氏「演劇のまちなんかいらない」現職を批判」(神戸新聞)

だが、平田オリザは、「自らが初代学長を務める芸術文化観光専門職大学は県立なので影響はなく、江原河畔劇場も豊岡市からの援助は一切受けていないから支援カットの心配はない、新市長とはこれから直接お会いして、色々決まっていく」と狼狽えたり、困ったりしている様子はない。

というわけで、コメントは、今後の展開を見てからにしたい。



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福嶋 聡(ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)、『パンデミック下の書店と教室』(新泉社、2020年)。

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