加藤介春著 恋の大学生(一)女を操る法螺の連発/福岡の大学生はバンカラ

福岡に大学なるものが出来ると、すぐにそれが福岡市民の誇りとなった。いや今も、福岡に堂々たる九州帝国大学が置かれているということは、やはり福岡市民の大いなる誇りである。

大学がわが福岡市に何をもたらし何をなしたか。チットそれはたいそう難しい問題で、われわれが容易にうんぬん言うべきことではない。見識に乏しいわれわれとしては、山川総長に対して今しばらく『恋の大学生』なる見出しのもとに含まれる出来事の公表を許してもらいたいだけである。

無論この記事は『恋の大学生』『大学生の恋』全部を表したものではない。しかし、この中に書かれたことだけは、どこかにあったことのありのままの記述だということを承知していただきたい。

▽ペンギン鳥以上に見えた角帽
福岡に大学が出来て、例の角帽姿がチラチラしだした最初の頃は、福博の娘諸君、芸妓諸君、下っては娼妓諸君にその姿がかの南極探検隊の持って帰ったペンギン鳥以上に珍しかったのである。

角帽からはお釈迦様の放ち給うと聞く五光のような光が諸君の眼を射、胸を射た。そして諸君は大学生を珍しいものと思う以上にエライお方、学問のあるお方と信ぜぬわけにはいかなかった。大学生もまた、己の五光を十二分に輝かして娘たちや芸妓たちの眼をピカピカ幻惑するよう努めた。

「末は博士か大臣か」くらいの法螺は、もう流行らなくなった。今では「僕が新橋に着くと二頭立ての馬車が迎えに来ているよ」程度の法螺も罪がない。
どうやらこうやら卒業すれば「立派な名医、立派なドクトル」でございます。そうなれば「君だってまんざら悪くはないだろう」と夢のような法螺が速射砲によって連発された。芸妓諸君、娘諸君の中に、たちまち玉の輿を望む者が出てきた。

こうしてここに「恋の大学生」が産まれた。まさしく彼らが産まれたのは、すごぶるお手軽であったことを祝福しなければならぬ。

▽福博女子の気質(かたぎ)の変化
大学が出来てから、福岡、博多の女が総体的に変わってきたということは、拒むことのできぬ事実である。たんに、大学芸妓というものが出来たとか、大学生と通じた娘さんがあるだとか、そんな上っ面の現象を指すのではなく、福博の子女が次第にその気質を変じてきたのである。

女子の気質の変遷は、時代の進歩に伴うもので、一大学が左右しうるものではない。しかし、福博の女子が角帽姿を目の当たりにしていっそう強烈な虚栄心を抱かせられたことはいうまでもない。この虚栄心の発動が、やがて諸君の気質を変質せしめたのである。

気質の変化は大きくかつ深くなくとも広くなければならぬ。
大学生の匂い、大学生式の匂いは女子の胸を微かながらも広く一面に覆っている。しかしこの気質の外面に、もっとも露骨に現れたのが、ここに掲げる「恋の大学生」「大学生の恋物語」である。

▽福岡の大学生はバンカラ
以上は緒論である。大学生諸君の卒業論文のように、いよいよ本論に入るとしよう。
元来、福岡の大学生はバンカラである。われわれは雨の降る日、洋服に高下駄を履いた大学生を見たことがある。竹藪のような髭や古い型の夏帽も見たことがある。角帽を阿弥陀にかぶって、袖の短い久留米絣(くるめがすり)の下から大きな黒い腕をヌッと出して汚い風呂敷包みを抱えた人も珍しくない。

これを東京や京都辺りの大学生に比べたら、まことに不作法極まるバンカラで、やはり田舎だという者があるかも知れぬ。もっとも鼻眼鏡にハイカラな詰襟、紺セルの腰の辺りの詰まった上服に、股引のような細いズボンを履き、金鎖を絡ませて赤靴を光らせているお方もある。

これは、大学生諸君の中で、もっとも驚嘆に値するハイカラである。これらは上級生に多いという。大学の門を出る頃にはこのハイカラでなければならぬと考えたのかも知れない。われわれはその稚気を愛さねばならぬ。

出典:九州日報(明治四十五年六月四日発行)
入力にあたっては、原文の調子を生かした形で、現代的表現への書き換えを行った。

加藤介春(1885−1946)
早稲田大学英文科卒。在学中、三木露風らと早稲田詩社を結成。自由詩社創立にも参加し、口語自由詩運動の一翼を担う。
九州日報に連載した「恋の大学生」が発端となり、恐喝の容疑で投獄される。のちに釈放。
詩集に『獄中哀歌』(1914)、『梢を仰ぎて』(1915)、『眼と眼』(1926)。
九州日報編集長として、記者であった夢野久作を厳しく指導した。久作いわく「神経が千切れる程いじめ上げられた」。
詩集『眼と眼』では、萩原朔太郎が「異常な才能をもちながら、人気のこれに伴わない不運な詩人」という序を寄せた。

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