加藤介春著 恋の大学生(二)食膳の病理黴菌学

▽大学生と恋の下宿屋のこと
一概に福岡の大学生といえど、ことに工科は別である。工科はまだ「恋の大学生」だと賛美されるほど、いわゆる発展していないからである。「恋の大学生」は医科が代表する。彼らは「どこだって医科が女にもてるさ」を名誉ある言葉として傲語するには相応しくないのである。

下宿における大学生を見るのも一興であり、そしてやがて「恋の大学生」の前提ともなる現役大学生(医科)は総数280名近く(内、一学年84名、二学年77名、三学年65名、四学年45名)であるが、これらの内、木曜会館の20名、基督青年会の20名以外は、箱崎、馬出、千代村その他福博市内の下宿屋に陣取っている。そして素人屋にいるのは素人娘目的の者があり、下宿屋にいるのもなかなか物騒。けだし彼らが下宿を探すにあたっては、女のいるところ、女に便利のいいところというのがやはり第一の条件である。

昨年のことだった。相生町の小川という芸妓置屋に「下宿はできませんか」と尋ねてきた大学生がある。冗談かもの好きか知らぬけれども、その時小広という芸妓(今は台×【一字判別不能】に鞍替え)が出て「こんな騒々しいところは勉強のお邪魔になりましょう」と断った。その大学生が出て行くと、あとは一家総出の大笑いとなったというが、これは今なお評判となっている。

東中州の某高等下宿に近頃引っ越してきた大学生に△橋という人がある。その晩から、いや昼も日曜などは中券駒△△【中券は中洲券番。券番は芸妓の派遣を仲介する事務所のこと。中券駒△△、だと中洲券番に所属している駒△△という芸妓、という意味になる。】の姿が出たり入ったり。二階では「やはりこちらに引っ越したほうが近くていいでしょう。よく来られるから」と甘ったれた駒ちゃんの声がしばしば聞こえるという。
その駒ちゃんがお座敷のない時の手線香【芸妓が自腹を切ること】であるのはいうまでもない。

大学生にとっては、女に対して誠に便利のいい下宿である。幸福なる大学生はこうして女から下宿の選択までしてもらうのである。けだし、かかる例はイクラもある。今はその一、二を挙げるに過ぎぬけれど彼らの好む下宿がどんな家であるかは自ら判明するであろう。
しかし、ある大学生は威張った。「まだ東京辺のように女郎屋などに下宿する者はありませんからねエ」と。然り、然り。

▽大学生口やかましのこと
下宿屋における大学生は総じて贅沢ではないけれど、口やかましいと定評である。実際、下宿料を二十円も出しているのは珍しいくらいで、多くは十一、二円から十四、五円である。しかし、福博の下宿屋で十四、五円といえば、上等でなければならぬ。
大学が出来てから福博には下宿屋が増えた。下宿屋の増加はその町その市の隆盛を意味するのである。ことに福岡には大学生専門の下宿というのさえ見るにいたった。そして、大学生諸君が十四、五円も出してくれるというので下宿のおかみさんはホクホクものでなければならなかった。

しかるに、彼らは口やかましい。執拗なお方になると冷えた物は不消化で候だの、これは温めぬと黴菌がいるなどの学校で教わった理屈を、そのまま食膳に持ってこられるので、煩いことこの上なしである。
大学生は、病理学や黴菌学に疎ければ、立派なお客として下宿屋も歓迎するであろう。我々は多くの大学生を泊めたことのある、ある下宿屋のおかみさんの話を聞いて、噴き出さずにはいられなかった。

下宿屋の大学生は、たいてい朝の七、八時頃に起きる。放課は四時(ただし一学年は午後に授業なし)で、帰宿後はちょっと勉強する者もあるが、多くは散歩に出かけたり、碁を囲んだり笛を吹いたり。そうして夜は!
夜は、無論勉強する人もあろうけど、我々のいわゆる「恋の大学生」が大学生の恋を実現実行する時であることを忘れてはならない。

出典:九州日報(明治四十五年六月五日発行)
入力にあたっては、原文の調子を生かした形で、現代的表現への書き換えを行った。

加藤介春(1885−1946)
早稲田大学英文科卒。在学中、三木露風らと早稲田詩社を結成。自由詩社創立にも参加し、口語自由詩運動の一翼を担う。
九州日報に連載した「恋の大学生」が発端となり、恐喝の容疑で投獄される。のちに釈放。
詩集に『獄中哀歌』(1914)、『梢を仰ぎて』(1915)、『眼と眼』(1926)。
九州日報編集長として、記者であった夢野久作を厳しく指導した。久作いわく「神経が千切れる程いじめ上げられた」。
詩集『眼と眼』では、荻原朔太郎が「異常な才能をもちながら、人気のこれに伴わない不運な詩人」という序を寄せた。

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