吐かなければ、腐っていく。
彼は私のことを
「こわい。」
と表現した。
それが、「怖い」だったのか「恐い」だったのかは知る由もない。
ただ、とてもとても傷付く(いや、実はそのフリをした。「だって、世の中の人ってこういう言葉はきっと傷付くんだよね?」的な。)と同時に
『相変わらず、この人は的確だなぁ。』と思った。
人生の中で何度か他人から「こわい」と表現されたことがある。
そして、私自身も自分を「恐い」と感じたことがある。
どうやら彼の言う私の「こわさ」というものは、
何しでかすか分かんない
的なことのようだ。
それは唐突に死を選んだり、何か壊れてしまうのではないか、
ではなく
捨身で突拍子もない何かをしてくるのではないか
というものに見えた。
とにかく、その言葉を聞いた瞬間は「そんなヤバそうな女に見られてるのか…。」ととてもショックだったのだが、次の日になって
”何であることも厭わない”という覚悟がこわいのかもしれない
と思い至った。
まあ、そりゃそうか
と、それはそれでなんだか心が一本折れたのだが、数日経って気が付いた。
私は元々、割とエグい表現も持っていたことに。
大昔、SNSで日記や物語、思考を言葉にしたものを書いたら
「ジリーやばいだろ」 「病んでるん?」 「怖いって!」
などと言われたことがあった。
果ては某音楽関係で何故か”ポジティブシンガー”の称号(といえば聞こえは良いが、多分レッテル)を与えられ、その後の私のブログの記事は幾つか抹消された。
記憶と記録、それを書いていた時間にいた自分、なんだか色んなものが消散した気がした。
そこから私は、自分自身の、なんというか、
どろり としたもの
自分ではおかしくないと思っているが、側からは気が触れていると思われるもの
そういう言葉たちを全て隠し、頭の中で読み上げるに留めていた。
彼がいう私の「こわい」部分はこの言葉たちに関わるものなのだと思う。
ギラリ としたり ぬるり としたり
色彩表現の濃い
何かはっきりとはしないけれどおかしなもの
それらは言語化されることによって、質量を持ち、輪郭を顕す。
私はそういう私の言語のエナジーを
如何程に叩きのめし、一人で咀嚼してきたのだろう?
そう思った時に
自分という感性の中に産まれてくる言葉は
吐いて文字に起こさねば、その場で腐っていくのだ
と理解した。
私は、私という工場にどれだけの表現物を腐乱させ廃棄し、また詰め込み、という作業を行ってきたのか!
ああ、ごめんなさい。
謝っても謝りきれないわ。
私の言葉たち。私という思考や心、その中にあった身体の記憶、産道を通し産みだすことすらせずに、赤子の死体を積み重ねてはそのまま腐肉の山にしていたのだわ。
つまりそれらは全て
私の”おもい”であり、
私なのに。
分かった瞬間に、
あっれー!?
別にこわいこと書いても良いのでは?
と何故かめちゃくちゃライトに思った。
アタマおかしいなんて自分で思ってるし、言うほどおかしくもない。
そして、アタマおかしいと思われても
別段、なんの支障もないのだ。
そうしたら、たった数分で丸一曲の歌詞が書けた。
それは、大昔に書いていた類似品とは比べ物にならない程の飾りなさで。どストレートに表現がエグい。(多分)
(多分)ってのはさ、
「こういうの、おかしいって多分言われるヤツなんだろうなー。」って推測。
平坦に出来るということはつまり、平坦を知っているのだ。そのぐらいの学習能力が自分にはどうやらあったというだけで、何がおかしいのかは絶賛きょとーん?中。
もう分かった。曲が書けなくなっていたのは、枯渇なんかじゃない。
ただただ、
私というものに自ら蓋をし、でっかいロードローラーで平坦にしていたのだ。
骨肉、血塊を全て丸呑みにすることで。
前回の旅でも彼は私に自分の感性やタフさを思い出させてくれた。
全くもって私には優しくなく、彼には緩い方法で。
今回は私のコールタール様の剥げない何かを思い出させてくれたのだ。
あ、ありがてぇよ!!!
リハビリが必要かもしれない。アウトプット=燃焼させて代謝をあげた方が良い。
カビだらけ腐汁まみれ。それも出していく必要がある。
冷蔵庫のお掃除は大切よ?
そっか。
”彼には緩い方法”なんてことはない。
彼は気付いていたのだから。
それらが私の中にあることに。
ごめんね。こわかったよね。
でも、正直言うと、
一体何がこわいの?
つまり私があなたにはしてきた「表現」というものはきっと、
本当に気が触れていて、トチ狂っているのだと思う。
そして、その表現が浮かぶ思考を持ち、舌で手で、身体で転がす私という人間も。
「足枷が外せないのなら、足首ごと切り落としてしまえばいいじゃない。」
この表現も彼は「こわい」と言った。
何がこわいのか私にはわからない。
”だって、腕があるのでしょう?這えば前に進めるわ。”
そう浮かんでしまうのだ。
まあ、どちらかといえば手首の方が後々マシなのだろうか?
と考えてみたり。
足は歩く様に出来ているけれど、手は体を引きずるようには出来ていないしなぁ、
とか。
論点がズレていることは分かっている。
「そういうことじゃない!」
とこの人生で何度も怒られちゃっている。
なんか違うらしい、ってことはもう知っている。
Sorry,
I just can't understand even if I knew it.
自分が死んだら全ての人に私の存在を忘れ去ってほしいと願っていた。もうこの世にいない私という存在に、生きている人たちの1mmのスペースも割いてほしくないのだ。生きている人たちの人生を。だから、私を匂わす何かをこの世に残すことを私は恐れていた。それは、作品を含めて。私なんぞで悲しむ時間など、作ってほしくないのだ。だって人生は、短い。
彼は
「俺が死んだら、悲しむ人いっぱいいると思うよ。」
と口にした。私は彼を心から美しいと思い、それを発することに悪びれない真っ直ぐの、とても真っ直ぐの残酷さを感じた。
ぼんやりと意外と幼い造りの彼の顔を見つめながら、非道い人だなぁ、と首を傾げるのが精一杯だった。
”自分がいることで誰かを悲しませてしまう”。
この発想が彼の中にはないような気がしたのだ。
それは私にとってとても羨ましいことであり、
新しいものの見方でもあり、
そして、その残酷さに気づきもしない彼にほんの少しだけ
「おそれ」
を感じた。
私と彼のどちらが非道いのかなんて、
分からない。
色濃く香る。
そういう言葉が好きだ。
今、そういうものを書き留めて、私という生き物の、意識の記録にしてみるのも良いのかもしれないなぁ…
と彼とのやりとりの中に思う。
全てが私を忘れ、無かったことになっても
作品は独り立ちして
この世に流れていくのだから。
この記事を書いた後、以下を挿入したくなった。
「私はもう、自分の歌を世の中に遺しても良くなった気がする。」と。
だって私は、この存在によって
誰かを揺さぶることがあっても
悲しませることはないのだもの。
そう思えるようになったのだ。
私が私の言葉たちを、締め殺し、噛み砕き、灰にしてしまうのは
きっととても
ナンセンスなことなのだわ。
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