天竜川・胆とり勝事件

-経緯-
明治39年(1906年)9月10日、長野県平出村(現、辰野町)で酒屋問屋の住込み働きしていたお玉(当時16歳)が村境のコエド坂の田んぼの中で惨殺死体となって発見された。お玉は、9日前の9月1日、神社の秋祭りに出かけたのを最期に失踪していたのだった。

届出を受けた平出駐在所の巡査は、伊那署に通報するとともに現場に急行した。お玉の遺体は、残忍にも下腹部が切り裂かれ内蔵が露出していた。伊那署は殺人事件として捜査を開始した。

だが、警察の懸命な捜査をあざ笑うように11月3日に第二の殺人事件が起こった。この日は、中央線・辰野駅落成の日で祝賀会が行われ村では大いに賑わった。その日、天竜川沿いの万五郎という部落に通じる山林でお年(当時30歳)の惨殺死体が発見された。遺体は、お玉と同様、下腹部が切り裂かれていた。

警察は、「性的異常者」の犯行とみて、中央線の工夫や地元の不良青年を対象に捜査を継続したが、依然手掛かりは掴めなかった。

そんな中、第三の犯行が起こった。今度は平出村の蚕種商を営む武田儀三郎方で、主が留守している間に妻のお連(当時28歳)、お手伝いのお竹(当時17歳)と乳児の長男3人が同じく下腹部をえぐられて惨殺された。更に異常だったのが、乳児の頭は母親のえぐった腹部に押し込んであったという。

この異常犯罪は、全国紙で報道され地元のみならず、全国的に警察の捜査方法に非難の声が高まった。警察は、更に増員して捜査を拡大したが手掛かりは掴めず迷宮入りの噂も出始めていた。

年が明けて明治40年に入った1月15日、辰野の竹入高という部落で、お高(当時49歳)が親戚の家を訪ねたまま行方不明となり大騒ぎとなった。警察はもとより、地元の消防団等が大規模な捜索を開始したが、2月下旬に腐乱死体となって発見された。下腹部は同様に切り裂かれていた。これで、6人が下腹部を切り裂かれ惨殺された。

-捜査の方向転換-
警察は、当初から犯人は性的異常者と見て捜査を続けていたが、改めて事件の一つ一つを検証すると、一つの共通点を見出した。それは、乳児を除く全ての女性は、乱暴を受けていないということだった。更に、内蔵が摘出されているという事実だった。

この当時、結核は死の病とされ、疾病すると治らないとされていた。それでも、比較的裕福な家庭では、医者に診せることはできたが、貧困な農村では医者にかかる金などは無く途方に暮れるしかなかった。また当時、結核は伝染すると考えられており、想像を絶する差別を受けることがあった。

ある時、捜査官が漢方医から、「このような難病には゛人間の胆゛が特効薬であると巷では信じられている」という話を聞きつけて、これは、性的欲求からくる犯罪ではなく、結核病を治すための゛胆とり゛を目的とした犯行であると推定した。そこで、付近の村で結核患者がいる家庭を一軒一軒取り調べたが、依然として手掛かりは掴めなかった。

-水車場の勝が逮捕される-
第五の事件は、8月15日の夜に起こった。平出村の岩垂きく(当時32歳)が買い物帰りに突然、背後から手拭を首に巻かれて首を絞められた。気丈なきくは、咄嗟に背後にいる犯人の睾丸を思いっきり締め上げた途端、犯人はギャーという叫び声を上げて逃げ出した。その時、きくは、男の顔をはっきり見た。男は、゛水車場の勝゛こと馬場勝太郎(当時31歳)だった。不思議に、勝は逃げることもなく翌日、何事もなかったように水車場でいつもの作業をしているところを警察に逮捕された。

-動機は謎のまま-
勝は、明治10年1月28日に長野県更級郡御厨(みくりや)村で馬場もさの私生児として出生。もさの兄夫婦のもとで育ったが、18歳の時に母親のもさが病死したのをきっかけに失踪。その後、平出村の造酒屋大津屋の作男として働いていた。

店の主や、近所の人達は、勝の性格は温厚、素直、誠実、律義者と評判が良く、勝が犯人だとは信じられないという声が多かったが、警察の取調べで、勝は「カラスが、くわえて持って行った(胆が)」と供述したきり、その後は一切動機を語らず、刑場の露として消えた。

この事件を取材した゛あゝ野麦峠(角川文庫)゛の著者である山本茂実氏は、勝の母親は岡谷製糸で女工をしていた。その貧しくはかない人生と、同じく岡谷地方の製糸工場から結核で追い出された若い元女工がラップして、母親を助ける境地で胆とりをしたのではないかと推測している。確かに、この元女工は家族からも隔離され納屋で一人わびしく療養していたという。だが、何も供述せず勝が処刑された以上、胆を元女工に与えていたのか否か、真実は永遠に闇の中となった。

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