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連合赤軍事件研究No.4


赤軍派と革命左派の共闘関係は深まっていき、共同軍事訓練を行うことで合意した。このころ、革命左派では瀬木の逃走や川島陽子らの逮捕によって組織の動揺が見られ、その引き締めも期待していたようである。
革命左派の参加者は
永田・坂口・寺岡・吉野・前澤・金子・大槻・杉崎・岩田(逮捕された加藤能敬のかわり)の9名だった。赤軍派の参加者は、
森・坂東・植垣・山崎・進藤ら軍のメンバーに加え、合法部の青砥・行方、女性メンバーも参加することになった。これは、革命左派に比べ、軍の女性メンバーがいないということで、森が新たに加えたのである。当初は塩見の妻を連れてくるという話だったが、永田ら革命左派に『幹部の妻を連れてこられる』という能力を示したかった森の見得である可能性が高い。結局、幹部高原の妻・遠山が軍に入ることとなった。彼女のことを、森は、

「非常に活発な人で、集会では赤軍派の男の人をあごで使い、いろいろ指図している」
「組織部に入れるといったら、彼女はなぜ私を軍にいれないのといった」

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第八章 連合赤軍への道
15ページ

と永田に語っており、永田は遠山を活発な女性活動家なのだろうと思っていた。
一方、すでに軍メンバーとして活動していた植垣は、遠山が加入すると聞いて、

…軍に入った女性が遠山さんであることにいささかがっかりした。一体軍に入ってやってゆけるのだろうかと思い、不安に感じた。

植垣 康弘『兵士たちの連合赤軍』
第六章 赤軍派と革命左派による新党結成
252ページ

と書いている。というのも、

赤軍派では、幹部の夫人は特別扱いされており、彼女たちを組織の活動に従わせたり、批判したりすることは、はばかられる雰囲気があったからである。

植垣 康弘『兵士たちの連合赤軍』
第六章 赤軍派と革命左派による新党結成
252ページ

植垣は革命左派のアジトを訪れたとき、積極的に炊事に参加している革命左派の幹部を見て、驚いている。赤軍派では軍隊的な雰囲気が強く、幹部が炊事するなど考えられなかったのだ。このことは女性の活動にも言える。もとの組織が小さい革命左派では女性たちも積極的(なかば強引に)に活動していたが、赤軍派は女性の活動は救援対策や兵站に限っていた。森は永田に上記の言葉を遠山の言葉として伝えているが、後の共同軍事訓練中の遠山の態度から考えても、本気で軍に入るというつもりではなく、見学のつもりで入山した可能性が高い。

共同軍事訓練の場所として選ばれたのは、赤軍派の新倉ベースだった。このベースは山岳部を装って持ち主から使用の許可を得た立派な山小屋だった。一方の革命左派は榛名山にベースを置いていたが、旅館の廃材を使って自分たちで建てた小屋で生活をしていた。このことも両派の違いであった。

水筒問題

1971年11月30日、森の命令で植垣は革命左派を迎えに行った。待ち合わせ場所にいたのは大槻と杉崎のふたりで、二人は警察の指名手配写真が駅などに貼られていないか先遣隊としてきているとのことだった。大槻が無事であることを連絡すると、残りのメンバーが向かう算段になっていたのだ。大槻の連絡が終わると、三人は山のふもとにテントをはり、一夜を明かすこととなった。
植垣は気になっていることがあった。

その際、私は、彼女たちが水筒を持っていないことに気が付いた。
「水筒を持ってないの?」
「持ってない」
「あとから来る人たちは持ってくるの?」
「多分持って来ないと思う」
「水筒がなければどうするの?(中略)」
「山が深いとは聞いていたけれど、私たちは普通、水筒を使わないし、なくても頑張る」
私は、いやはや大した人たちだと少々あきれたものの、自分の水筒で当面はなんとかなるだろう、あとはトランシーバーで水を持って来てくれるよう頼べばよいと判断した。

植垣 康弘『兵士たちの連合赤軍』
第六章 赤軍派と革命左派による新党結成
253ページ

翌朝、三人は本隊が来る前に、荷物を上にあげておこうということになった。杉崎が途中でへばってしまったため、植垣はそこでふたりを待たせて自分だけ迎えに行こうとした。すると、大槻も行くというので、植垣は大槻の体力に驚いた。
植垣と大槻が迎えに行くと、革命左派の本隊(永田・坂口・寺岡・吉野・金子・前澤・岩田)は到着していた。植垣はあらためて水筒を持って来ているか聞いたが、持って来ていなかった。植垣は内心あきれたものの、これぐらいは援助すべきと判断、小屋にいる坂東に食料と水を持ってくるよう依頼した。坂東は「了解」と返事をした。

私は、このことで、のちに赤軍派が革命左派を激しく批判するようになるとは予想もしなかった。

植垣 康弘『兵士たちの連合赤軍』
第六章 赤軍派と革命左派による新党結成
254ページ

翌日、一行は水筒を持ってきた山崎・進藤と合流した。

二人は、さっそく革命左派の人たちに水筒を渡したが、その際、進藤氏が、威勢よく、
「あんたたち、どうして水筒を持って来なかったんだ。山に入っていながら、山にはたいする考えが甘いよ」
と批判しだした。

植垣 康弘『兵士たちの連合赤軍』
第六章 赤軍派と革命左派による新党結成
255ページ

植垣がとりなすと、進藤らは態度を一変させ、友好的に接した。その後、合流した青砥も再び水筒を持って来なかったことを批判し、革命左派だけでなく、植垣もあまりのしつこさに呆れた。いうまでもなく、進藤らの態度は森の指示によるものであった。
新倉ベースに到着しても、森は水筒問題を執拗に追求した。革命左派の面々も黙ってはおれず、場は険悪な雰囲気となった。遅れて到着した永田が、

「やはり、水筒を持って来なかったのは誤りだから自己批判します」
といい、続けて、
「水筒を持って来なかったことは誤りなので今後は気をつけますが、不備などに精神力で対応することは、私たちの闘いにとって大いに必要なことだと思う。このことを無視して批判するのは正しいとはいえないと思う」

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第九章 共同軍事訓練
83ページ

と発言した。この永田の発言で赤軍派による革命左派への批判は収まったが、森は肩透かしをくらったような顔をしていたという。
論争がひと段落すると、両派は友好的に接した。永田が革命左派の広報誌『解放の旗』を配布すると、進藤が熱心に質問してきた。進藤が質問を終え、その場を離れると、森が永田に話しかけた。

「問題のある進藤と笑いながら話をしているのは問題だ。皆、そういっている」
といった。この発言に私はとまどった。私は進藤氏に親しみをもちこそすれ、問題があるとは思わなかった。また、たとえ問題があったとしても、その進藤氏と笑って話をしてはいけないということも理解できなかった。

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第九章 共同軍事訓練
82ページ

進藤は植垣が当初協力者にするつもりで勧誘したメンバーで、森の指示や指摘に盲目的に従うということはなかった。そのため、森に嫌われており、ある日の雑談では、

「俺と坂東は硬派、植垣は硬派の軟派、山崎はドイツ帰りの遊び人、進藤は不良」

植垣 康弘『兵士たちの連合赤軍』
第五章 ゲリラ戦争路線への転換
229ページ

とメンバーたちを評価している。この森の評価が、彼らの生死を分けることになる。

遠山批判の始まり

赤軍派から女性で唯一共同軍事訓練に参加した遠山について、永田は森の発言から活発な活動家なのだろうと勝手に期待していた。
到着の夜に行われた全体会議では、各々訓練についての決意を述べたが、
遠山は、

「私は革命戦士になるんだ。今はそれしかいえない」
と発言しただけで、共同軍事訓練そのものについての決意表明をしなかった。私はこれに拍子抜けしいくらかの抵抗を感じた。

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第九章 共同軍事訓練
83ページ

この発言後も、他人の発言中にブラシで髪を梳いたり、赤軍派メンバーと雑談、寝そべったりの遠山の態度には、永田だけでなく他の革命左派メンバーも閉口したようである。
翌朝、森は永田を呼び止め、赤軍派メンバーの評価をした後、『全員革命戦士としてやっていける』と発言した。本題の銃の要請に入ろうとしたが、永田は銃の要請を保留にしたうえで、森の『全員革命戦士としてやっていける』という評価に疑問を呈した。槍玉に上がったのは、勿論遠山である。

「…遠山さんはどうして山に来てまで指輪をしているの。合法時代の指輪をしたままで、革命戦士としてやっていけるといえるの」
と批判した。私が指輪を問題にしたのは、合法活動で私服刑事に尾行されていた時にしていた指輪を非合法の軍に移ってもそのままにしていることは警戒心のない行為だと思ったからである。
(中略…革命左派だけでなく、赤軍派も気をつけていた旨が書かれている)
私の批判にたいし、森氏は、
「女の人のことには気がつかなかった。青砥も大きな指輪をしていたが、それはとらせた」
と弁解した。(永田はこの弁解に納得せず)私は、赤軍派では幹部の夫人は特別扱いされているので、森氏は高原浩之氏の夫人である遠山さんに遠慮しているのだろうと思い、
「女の人のことには気がつかなかったでは理由にならない。そんなことは許されない」

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第九章 共同軍事訓練
85ページ

森も永田のこの発言に「わかった」と答えたので、永田は森から遠山に指輪を外させるだろうと判断した。
翌日の夕食後雑談していたところ、永田は遠山がまだ指輪をつけていることに気がついた。永田は遠山に「森から指輪を外すようにいわれてないのか」と詰問した。森は幹部夫人の遠山に遠慮していえなかったのである。遠山は突然のことでうまく反応できなかった。永田が問題にすべきだったのは森の指導についてのはずだが、遠山の態度が初日から気に入らなかったこともあり、彼女本人への批判につながっていく。まずどうして専門外の非合法活動に参加する決意をしたのかをきこうとした。しかし、遠山は赤軍派としての非合法活動に対する公式見解を繰り返すばかりだった。

しかし、私は、遠山さん自身が何故に女性兵士として山に来たのか語ろうとしたものではないと思ったので、
「私が聞きたいのはそういうことじゃないのよ。遠山さん自身のことを聞いているのよ。何で山に来たの」
と質問を繰り返した。

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第九章 共同軍事訓練
91ページ

二人の問答を見て、他の革命左派メンバーも加わっってきたが、遠山は赤軍派の公式見解を繰り返すばかりだった。もともと永田と同じように遠山の態度を苦々しく思っていた革命左派側は、「なんで髪が伸ばしているのか」や「合法時代と同じ組織名を使い続けているのか」と批判を広げていく。
一方の赤軍派メンバーは当初革命左派側が何を言っているのか理解できなかったという。当初は革命左派側の批判から遠山を弁護していたが、

しかし、批判が具体的になってからは、そんなこといってもしかたないじゃと思いながらも、批判されたことは、私自身も感じていたことであり、いわれてみればもっともだ、我々がいわなければならないことだ、どうして遠山さんはちゃんと答えないのだろうと思い、遠山さんに批判的になった。

植垣 康弘『兵士たちの連合赤軍』
第六章 赤軍派と革命左派による新党結成
259ページ

と植垣の記すように他のメンバーも感じていたようで、遠山を弁護しなくなった。
赤軍派幹部の森・坂東・山田は台所に引っ込み、遠山が助けを求めに行っても、追い返して三人だけ議論を始めていた。永田としてはこの森らの対応も不満であった。永田の手記『十六の墓標』(下)ではそのまま寝てしまったと記しているが、

「赤軍派は苦労していないのよ。小屋はあるし、食料はあるし…。山の生活はそんなに簡単なものじゃない。私たちがなんであんな苦労してきたかわからなくなる」

植垣 康弘『兵士たちの連合赤軍』
第六章 赤軍派と革命左派による新党結成
259ページ

といって泣いてしまった。これは言うまでもなく水筒問題の反撃である。さらに永田は決定的な発言をしてしまう。

「このままではとても一緒にやってゆけない」
といって、寝てしまった。

植垣 康弘『兵士たちの連合赤軍』
第六章 赤軍派と革命左派による新党結成
259ページ

革命左派による遠山批判を黙ってみていた森だったが、その頭には妙案が思い浮かんでいた。
大菩薩峠の大量逮捕によって組織が壊滅的になったとき、塩見は「メンバーの共産主義化が不十分だった」と悔しがっていた。この『共産主義化』、今回の事件で最も使われるキーワードなのだが、明確な定義がなく、悲惨な状況に追いやった元凶である。この塩見の文脈では多くのメンバーが無抵抗で逮捕されたことを指していると解釈できる。塩見のあとを継いだ森にとって、この『共産主義化の獲得』が喫緊の課題だったのである。
赤軍派ではメンバーが不祥事を起こした場合、自己批判させ、懲罰(禁酒禁煙など)を下して終わりにいた。一方、遠山とのやりとりでも明らかだが、革命左派では自己批判だけでなく、他のメンバーに批判させることで、そのメンバーの素質まで深く点検・批判していた。森はこの革命左派の相互批判に『共産主義化の獲得』への近道を感じ取ったのである。これが本事件の悲劇の始まりであった。
翌朝、森は赤軍派メンバーだけを小屋の外に呼び出した。

「遠山さんへの批判は赤軍派全体への批判である。全員で責任を持って遠山さんの問題を解決していかなければならないし、他のものも同様の自分の問題を解決していかなければだめだ。遠山さんは、もっと素直になって革命左派の批判に答えるようにしろ」
といった。
(遠山はまだ問題の指輪を嵌めていたので、他のメンバーが怒り、外させた)
続いて、森氏は、革命左派の二名の処刑に触れ、
「革命左派ではこのような闘いを経て山を守ってきたのだから、革命左派の批判にいいかげんな気持ちで対応していてはだめだ。総括できないまま山を降りるものは殺す決意が必要だ」
といったあと、
「遠山さんが総括できるまで山を降りない。山を降りるものは殺す」

植垣 康弘『兵士たちの連合赤軍』
第六章 赤軍派と革命左派による新党結成
261ページ

森のこの発言に、赤軍派メンバーは同意した。この『総括』とは簡単に言えば、自己批判や自己点検である。印旛沼事件を取り上げた前回でものべたが、すでに革命左派が処刑を行っていたことは森にプレッシャーを与えていたようである。
赤軍派メンバーは小屋に戻ってくると、遠山を総括させること、それまで山を降りない、降りるものは殺すと宣言した。永田は大言壮語の赤軍派のことだから信用できないと内心思っていたが、

「遠山さんを必ず総括させるといったけど、言葉だけでなく必ず総括させてほしい。総括するまで山から降ろさないでほしいし、なるべく早く総括させてほしい」

永田 洋子『十六の墓標』(下)
第九章 共同軍事訓練
97ページ

と念をおした。このやりとりが同志殺害の第一歩だったのである。
水筒問題、それに続く遠山批判は赤軍派と革命左派のどちらが新たな関係で指導権を握るかのかの対立であった。しかし、この対立に永田は遠山の素質や人格をスケープゴートにしてしまったのだ。そのやり方に森は反対せずに、『共産主義化の獲得』に使えると迎合してしまった。また森も永田もそれぞれの派閥で絶対的な人望があったわけではなく、なし崩し的に指導者となった経緯もあり、彼らを批判した過去のあるメンバーたちにも批判が向いていくこととなる。

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