見知らぬ他者にも祈りがあるという恐怖(2023.5.27)

友人に連れられて天理に行った。

駅前の妙に現代的な公園を過ぎれば到達する大きすぎるアーケード商店街には、喫茶店や化粧品屋や「商店街の」服屋のほかに、神具店や装束店がある。そしてその横をひっきりなしに様々な土地の名前を背負った法被を着た人々が通る。

天理教教会本部が近づくにつれ私は己がこの空間から拒絶されていると感じる。なぜかはわからない。大きな「神殿」、砂利道、靴を脱いで神殿にあがれば、あまりにも紳士的な青年が穏やかに挨拶をくれる。

畳畳、畳に埋め尽くされたひとつめの礼拝所、その真正面にある太鼓が私を睨むようにある。人々はそこで思い思いに祈っている。私の動悸は少しずつひどくなる。友人が参拝を終えるのを柱の影で待てば、長い「神殿」巡りが始まる。礼拝所にを通り過ぎればその度に祈る人がいる。それは私にとってあまりの恐怖であり、途中で涙が止まらなくなってしまった。

何が怖いか――それは簡単で、自分以外の、親しくない他者にも祈りすがり願うだけの心があるということだ。さらにその対象が今ただひとつの方向を向いているということだ。以前書いたかもしれないが、私はコンサータを飲むまで他人に他人の人生があるなどと実感したことはなかった。今度もそうだ。しかし今度はコンサータの力ではなく、広大な「神殿」の礼拝所一つ一つで祈る人々を見るたびに、その気にあてられるようにして人の求める救済を感じる。

モスクに行ってもそこまで恐ろしいと思ったことはなかった。しかしそれは大抵の場合、淡々と行われるファルド(義務)の礼拝を見てきたからだろう。礼拝を人々と肩くっつけあってするのは嫌いではない。人々がドゥアをしていても怖くはない。

なぜ私はここまでこの「神殿」に恐怖を感じるのだろうと考えると、それはそのほとんどが任意行為だからだろう。にも関わらず人々は同じように動き何かを求めて祈る。それが本当に恐ろしかった。他人が何か祈るだけの心を持っているということが、本当に怖かった。私にとって世界はすべて私の認識する世界でしかなく、そこには見知らぬ他者の祈りなど介在しなかった。私は私の生のなかで祈り、見知った人が祈るのを目撃はしたものの、それ以外の大量の人間ひとりひとりに祈りの気持ちがあるなどと考えたことがなかった。

本当に恐ろしい体験だった。愕然とした。「神殿」はひろく、私をいつまでもその恐怖から解放しなかった。

しかし、知ることができてよかったと思う。誰かがその生を送っているということは、そこに祈りも内在しているのだ。それを知らずに生き続けるのは、あまりにも冷淡かもしれない。

しかし私は、ハッジに行ける気がしなくなってきた。あれほど膨大な人間の祈りに触れたら、恐ろしさのあまり生きては帰れない気がするからである。

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