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そろばんに賭けた日々

「そろばん塾を変えたい」

妻が打ち明けたのは、息子がそろばん塾に通い始めてから1年経とうとしている冬の出来事だった。珠算3級を目標にしていたのだが、妻が思っているようなペースで昇級できていない、と私に訴えた。私はそろばん塾に通ったことがないので、塾を変えることで本当に目標に達することができるのか、半信半疑だった。

その後、妻がホームページでよさそうな塾がある、と見つけてきた。見て見ると、息子が通う小学校の学区外。いくつも小学校区を跨いだところにあった。学区外への外出は保護者同伴が小学校のルール。通えるかどうか、まずは無料体験に参加することにした。

息子が小学校2年生の年明け。家族3人、自転車をこいでそろばん塾に向かった。扉を開けると、教室にはぎっしりと生徒が並んでいた。先生に「目標は?」と尋ねられ、珠算3級と答えた。その時の先生の顔は、今でも忘れられない。その顔を見て、家族一同ここに賭けてみようと決断した。ここから、長い道のりが幕を開けることになる。

息子が転塾したそろばん塾は、小学校に入る前の小さい子から、中学生・高校生まで通う塾だった。息子の送り迎えで教室の前で待っていた私を「ほら、暑いから」「ほら、寒いから」と言いながら先生は度々教室に入れてくれた。教室の中は、緊張感がありつつも連帯感があった。中学生・高校生のお兄さん・お姉さんが、小さい子どもたちを指導したり、あやしたりしながらそろばんに向き合っていた。こういった姿を見ながら、ここに入れてよかったと実感した。お兄さん・お姉さんの背中を見ながら、そろばん経験者でもある妻の献身的な努力により、息子は当初の目標である珠算3級を突破し、その後有段者までになった。

全国大会との出会い

息子が転塾したそろばん塾が力を入れていたのは、大会への参加だった。そろばんの世界では、いろんな大会が行われているということを、私はそのそろばん塾に入ってから知った。従前のそろばん塾では、そんなことは全くなかった。先生から「今度、○○に出ましょう。○○君もぜひ」と誘われては、先生の後について参加していった。

とりわけ印象的だったのが、「そろばんクリスマスカップ」という大会だった。毎年12月末、さいたま市のロイヤルパインズホテル浦和で行われるこの大会には、全国から珠算塾の精鋭が集まり、半日かけて日本一を争う。

初めてクリスマスカップに参加したのは、息子が小学4年生の時だった。先生と高校生のお兄さん・お姉さんの後について行った。ホテルの4階にある大宴会場には、全国から選手たちが集まっていた。妻と私は、小宴会場に設定された控室から、ライブ映像を見ながら応援した。トイレ休憩で廊下に出ると、悔し涙を流す選手をあちこちで見かけた。青春が、そこにはあった。

「英語読上算がおすすめ」

そう先生に言われた時、最初全く頭にピンと来なかった。「願いましては〜」と言いながら畳み掛けるように放たれる数字を聞き取り計算する、読上算。それを英語でやるというのだ。言葉で例えるのが難しいので、練習問題の動画を紹介する。

先生曰く、英語読上算は競争相手が少ないから入賞しやすいという。前のそろばん塾では夢に終わってしまいかけた珠算3級を叶えてくれた先生の言葉を、息子は信じた。

次の大会を目指していた息子を、新型コロナウイルスの猛威が襲いかかった。そろばんの世界も無縁ではなかった。珠算検定試験が、数多の大会が、中止に追い込まれていった。そんな中でも「そろばんクリスマスカップ」はいち早くオンライン開催に舵を切った。全国のそろばん塾をZoomで繋ぎ、大会として成立させた。息子の努力は実を結び、2020年のオンライン大会、英語読上算小学5・6年生の部で入賞を果たした。

息子は中学生になっても、そろばん塾に通い続けた。ただ、練習時間の確保に苦労するようになる。水曜日はプログラミング塾に行ってからそろばん塾へハシゴするスケジュールになった。本人は相当キツかったはずだ。それでも、リアル開催のクリスマスカップに出るという執念が、彼を支えた。

ある日、英語読上算の練習をしようとYouTubeにアクセスしたら、ある動画をおすすめされた。

執念を持っていたのは、息子だけではなかった。主催者も、オンライン大会で命を繋ぎながら、この時を待っていたのだ。

いざ浦和

息子が通うそろばん塾から2022年大会に参加したのは、息子を含めて4名。初出場の時はお兄さん・お姉さんに連れて行ってもらった立場の息子は、下級生を連れて行く立場になっていた。

会場の大宴会場には、わずかばかりだったが観覧席があった。席は埋まっていたが、息子と同じ空気を吸いたくて、立ち見を選択した。2022年12月25日12時、大会の幕が上がった。

競技は総合(掛け算、割り算、見取り算)、読上算ときて、いよいよ英語読上算の時間となった。

「そろばんクリスマスカップ」では、各部門・種目毎に入賞がある。部門は「小学2年生以下」「小学3・4年生」「小学5・6年生」「中学生」「高校・一般」に分かれていて、種目毎に上位40位までが入賞となる。息子は中学生の部で総勢190人。先述のとおり2020年大会で息子は入賞しているが、今回は中学生。レベルは段違いであることは承知していた。そのためにずっと練習してきた。

種目別競技は難しい問題から始め、正解した順番に順位が決まる。正答者が少ない状態が続くと、難易度が下がる。回答できたら答案用紙を持って挙手し、隣の選手に渡す。正答なら丸を付けて選手に返す。正答なら再び答案用紙を持って挙手し、順位が確定する仕組みになっている。

英語読上算は、高校・一般の部が次々と勝ち抜けていくのに、中学生の部はなかなか正答者が増えなかった。そして高校・一般の部が正答者40名に達し終わろうとする頃、問題が「9桁から13桁、5口(9桁から13桁の数字が5回出てきて、足したり引いたりする問題)」になった。これならいけるかも、と私は思い始めた。

2問目。読み上げているのは、普段YouTubeで聞いているのと同じ先生。スピードは、少し落としていた。息子はリズミカルに頭を動かしている。

いける。確信した。

「答案用紙を持って手を挙げてください」
司会が問いかける。息子は、答案用紙を持って手を挙げた。
隣の選手から解答用紙を渡された息子は、頭を揺らしていた。

「今の問題、合ってた人」
司会の問いに、息子は再び手を挙げていた。

妻は振り返り私を見た。
先生も振り返り私を見た。
3人ともうなづき合っていた。

息子は入賞の証「サンタカード」を持って、私に飛び込んできた。
私は「ようやった」しか言えなかった。涙がしばらく止まらなかった。

※英語読上算は1:37:17以降。息子が正解した問題は2:12:47以降。

息子には、やりたいことを見つけかけている。おそらく、次回以降の「そろばんクリスマスカップ」に出場することは難しい。そのことは、息子が一番理解していた。だからこそ、この大会に賭けた。女神は息子に微笑んでくれた。これからもそろばんを続けるかどうかは、息子に判断を委ねている。

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