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小説「夢で会いましょう。」(完全版)

       夢で会いましょう。



お雑煮の匂いが、部屋中に立ちこめた。昔ながらの匂い。食欲をそそる匂い。優しい母の匂い。幼くして母を亡くした俺にはよく分からなかったが、母の存在をいくぶん洋子に重ねていた。お雑煮なんか母は作ってくれる人物だったかどうかは分からない。だがいつも、愛情を込めて洋子は俺に作ってくれた。
「できるよ。そろそろ」いつもの彼女の声が消えてしまう気がした。そんな事をよく最近は考えてしまう。優しい影ごと、昨日の彼方へふと去ってゆく。
切ない気持ちに駆られる。

洋子とは新宿のバーで、三年前知り合った。 当時はずっと、今よりも営業の成績も上手くなく、路頭に迷っていた時期だ。
情けない俺は僅かながらに貯金していた金さえバーで使ってやろうと、相当(世の中に対する憎悪、復讐めいた考えもあって)ヤケ酒をしていた。
そこで突如、暴力事件は起きた。
酔っ払った低俗な客に洋子が絡まれたあの日。二人は知り合った。

「味見してくれない?」台所から振り向いたやさしい微笑み。
少しばかり病弱にも見える細くて、華奢なスタイル。
薄化粧でも女優のように美しい顔立ちの洋子。しかし左頬のあざが、その時バーで起こった事件を時々、思い出させた。
輩どもに突き飛ばされた頃からその痕跡は消えていなかった。
怪我を負わせた奴は、薄汚い格好をした若い男だった。酔っ払った勢いで関係ないはずの洋子に、グラスで殴りかかろうとした。
それを俺は、洋子をかばう形になって、右肩を切ってしまった。だが、洋子にもそのグラスは当たった。 奴の服の色まで、今でもよく鮮明に覚えている。(作業着のような全身灰色の憎い姿だ)。 そんな運悪い悲劇が皮肉にも、俺らに関係性を持たせた。

台所の前に行き、洋子が差し出した小皿を手に取る。このお雑煮の匂い。ずっと大切にしていたい。そう強く思った。
三年前。そいつに絡まれたあの日から全てを変えてくれた女性、洋子。
窓の外で降り続く一時の雨が呼んだ、雲のように。
心地良いふわふわしている、綿菓子のよう。 ささくれた俺の心に確実に、優しいブランケットのような日常の彩りをくれ、温めてくれていた洋子。
「どれどれ」自然と笑顔になって、俺は言った。 小皿に乗った鮮やかなオレンジ色の人参。 ピンクの縁取る三つ編みかまぼこ。
まずは、人参を箸で取った。
じわりと広がる、野菜の風味。
「うん、いつもの味、おいしいよ」俺はそう噛み締めるように言った。こんな日常がずっと、続くと思っていた。そうやって、思っていたかっただけなのか。彼女と出会うまでの三年前は、何もかも信じられない日々だった。。社会も町も。あらゆる夢のことも……。何もかもだ。だけども、洋子は違った。
素晴らしい希望そのものだった。
丁寧に、三つ編みに切られたかまぼこ。やっぱり美味しいよ。この味だ。これ以外お雑煮なんて、食べたくない。洋子の作ったお雑煮以外、絶対。間違っても外食で、お雑煮が出た時はこれよりも美味い食べ物はないと。誰よりも誇らしげに食べるだろう。

俺たちの住むアパートは、JR山手線からほど近い高田馬場にあるアパートだった。6畳しかない二階建てのアパート。
キッチン、冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、エアコン、床におかれた小さい机。決して豊かな暮らしとはいえなかったが……。洋子が、側にいてくれるだけで灯のような、来年も生きていけそうなそんな想いをくれた。
窓から差し込む夕陽は、アパートの床へと影を伸ばしている。
パッと儚く、どこかに吸い込まれてゆく日陰に見えた事。心の奥深くの真っ黒な部屋に閉じ込めたまま、秘密にしておきたかった。 ささくれたった妙な切なさは、嘘をつけずに間もなく俺の心を駆り立てていった。
「洋子、コンビニに行ってくる」ひらめいたように努めて普通の顔をしながら、俺は言った。 「え。何買ってくるの」いつものように洋子が言った。
少し間を置いて、微笑みながら俺は洋子に言う。 「缶ビールだよ」
「うん」洋子は小さく頷く。
それだけで、全て事を理解したかのように。 ゆっくりと。いつもの、微笑み方で。

アパートから500mほど大通りの方へ向かった先にある、路地裏。
携帯の光が俺の顔を照らし出す。
不気味な光。
人の営みから、断絶された夕闇。もう殆ど、暗くなっている。俺は画面の眩い光からは、もう逃れられなくなっていた。
ピッ。
電話の声は、会社の上司の栄治だった。
「よォ。例のやツは持ってきてッか?」酒の入ったガラガラな声。
乱暴な話し方は、酒と女(妻には隠れ、三人の女と不倫している事も含め)言うなればスリルがくれる快楽物質に洗脳された、酷い、最悪な男。 「ああすぐやる。だけどな。今回は、タダじゃないからな!」強い口調で俺は言い返す。絶対に、今回は失敗できない件だ。
「分かってェェるよ!昨日のオンナもゼェェんぶやっから、はやく吸ワセ……」
ブツッ。
冗談めいた奇声を発していた栄治との電話は、急に切れてしまった。
「栄治?」不審に思いつつも、栄治がこちらへ向かっていると思われる道を、俺は警戒しながら見に行こうと決めた。
もうすっかりあたりは夜だ。
洋子も心配しているだろう。再度かかってくる気配もない電話を持ち直して、また電話をかける。 プルル……。プルル……。
全く出ないままだ。
線香の火が突然消えたかのよう、一瞬の出来事。何が起きてる?
まさか……?
いつもは長くても、10分程度で行って帰ってきていたコンビニへの道は、既に30分は過ぎようとしていた。洋子に電話をかけようと咄嗟にズボンのポケットに、手を伸ばした。 だが、すぐ止めた。
そんな事を最初からする訳もなく。
ただ、何かよからぬ、大きな胸騒ぎがしたから。無事に帰って全て終わらせよう。
神様、何事もなく終わらせてくれよ……。

大通りから、更に入った路地裏を抜け諏訪公園へ辿り着いた。見渡してみても、やはり栄治の姿はない。
一度通りに出てみた際、急に心の中で声がしてきた。
〈やめろ!絶対に行くな〉〈絶対に!〉
どちらにせよ、この通りにも栄治の姿はどこにもなかった。
「お手あげか?」俺は酷く落胆していた。栄治の野郎。ここに来てヘマをしたか。
暗黒の夜空で、月がこちらの顔を睨んで俺を見下ろしている。あたりの風景は、モノクロと化した。脳裏に渦巻く最悪の展開?それほどこの世の終わりを物語っているものとしか、意識には上がってこない。
激しく首を横に振る。

そして、その数秒後。
闇は一刀両断された。不審な男が向こう側のビルの間から辺りを伺い、出てくるのを見かけた。 タクシーを拾おうと、手をバタバタ振っている。 慌てていた。真っ黒なスーツ姿。
顔には、見覚えはない。
男が出てきたビルの間の裏通りへ俺は迷わず突入することにした。

もう、家を出てから、50分は経過していた頃だった。
これ以上、動かない訳にはいかない。
人の姿も店すら、見当たらない路地裏に入って、暗闇に野良猫でもいないかと辺りを探った。突き当たり、違う道路に出た。
もう一本向かいの路地裏。
そこでついに、栄治を見つけた。
腹から血を流し、仰向けで倒れている。
「アァ……」苦しみながら声にならない声を栄治は出していた。
「栄治大丈夫か!?」俺は叫んだ。
まだナイフが、腹の部分に刺さったままだ。 だが、幸いにも、それは深いところまでは刺さっていないようだ。深く突き刺そうとして、躊躇してやめたのか?
「油断しちまッタ……」今までの罪を全て詫びるような、弱々しいかかぼそい声を出す栄治。そんな姿を見る時が来るとは……。
「救急車を呼ぶ」そんな俺の声を遮るように、何者かの足音が、背後から聞こえだした。
 <危ない……>
覚悟して俺は、そいつの方に振り向いた。

この街に希望などあるのだろうか。
三十四年生きてきて、分からない。
未だに不明なまま。野良猫が月の下で、ゆらゆらと徘徊している。
大通りをゆく、酔っ払いの男と洒落た真っ赤なドレスを着た女。ベラベラ喋って、壁の塗装が剥げたカラオケ店の中に入ってゆく。
この世に絶望したって面をしたホームレスの爺さんは、駅地下に降りる階段の横。死んだ目をして煙草をふかしている。
灰色の雲が、心を覆う。
俺の犯した秘密をどうか洋子だけは、隠し通して生きてほしい。
身勝手な考えかもしれない。でも、それでも、俺は……。
洋子に出会って、幸せだった。世界で一番幸福な男だ。

2  

一九九九年・夏。俊明が亡くなってから、三年目の夏。太陽が眩しい。でもそれは、私を歓迎なんかしてくれてない。だってこの世界に。もう……。
生きる希望もなくして、刑務所から私はついに出所した。
心身ともにボロボロだった。
「俊明」頬に流れた涙とともに、私は呟く。 ゴミ収集車から落ちたゴミ袋同然、の声。 石にでも躓いた時の声を出した。自分でも驚いた。
いない人の名前を。
あの日と同じ温度で呟くなんて。
俊明が、よく吸っていた煙草を。
いつものあの自販機で買おうかしら?
そして吸ってみたい。そんな突拍子もない考えが浮かぶの。それで彼の事をまた感じられるとでも思う? 
しかも私は全く煙草を吸う柄じゃない……。 全然違うのに……。
涙が溢れてくる。止まらない。
深い闇の渦に放り込まれ。近くのガードレールにもたれかかりながら泣きじゃくった。
「私は」
「生きていけない」太陽が燦々と照りつける、熱いアスファルトに向かって言った。
小さく掠れた声。ーー地獄の出口は、地獄の入り口?ーー
「おーい!」男の呼ぶ声がした。意識がなくなりそうな、闇の狭間に。若い男の声だ。
住宅街の手前の道路で、誰かに手を振りながら呼んでる男の人。
私のことだとも思った。男の人が見つめる先の住宅街から、同じ歳くらいの若い女が走ってきてる。そういえば初めて。
俊明と住んでたアパートに向かった日も、こんな感じだったな。少し遠くで、彼は手を振ってくれていた。
いやでも思い出す。あの風景。
コンビニに俊明が向かった、あの恐ろしい日。全てが変わってしまったの。

「俊明。味もう少し濃いほうがいいかな?」 私は生まれた時から父の姿を見た記憶がない。ずっと幼い頃、この世から消えた。
だから幼少の頃から女手一つで育てられてきた。 母のいつも頑張る横顔。
子供ながら、ずっと見ていた。
父がいない孤独を知っているから。俊明は、こんな私にとっては父の代わりのような存在でもあって(私の父はきっと母親の性格からしてとても優しい人だったのだと思う。だけどすごく弱くもあったのかもしれないわ)亡き父の影を追ってそんなふうな、男性を探し求めていたのかも。少しでも俊明のお母さんみたいな、ヒトになれたらと思っていた。
俊明のお母さんは、あまり〈良くなかった方〉みたいだから。
「ねぇ俊明。今度の休みお出かけしない?」 心につっかえた痛みを胸に抑え込んだまま、私は言った。笑いながら。
「いいよ。あの海にも」
「そうね!」
あの、海。東京の晴海ふ頭公園。
これで三回目。
「もう三回目だっけ?」俊明は、嬉しい言葉を私に言ってくれた。
「覚えてるんだね?そういう俊明が好き!」嬉しさのあまり、私は俊明に抱きついていた。「当たり前さ。洋子と行ったところは全部覚えてるからな」私は胸が高鳴った。
「えぇ!じゃあ……。ここに住む前から行ってたレストランは、何回目?」自分でも覚えてない癖に言った。
「……。覚えてない」少しの間無言だった俊明は、おどけた顔して答えた。
「なにそれぇ?ぜんぶって言ったのにぃ!」 どこまでも私は俊明の事が、大好きだった。愛していた。
人生を差し出してもいいと思うほど。
それがどんな結末を迎えようが、構わないって。
二人とも夕暮れの中、子供みたいに微笑み合っていた。 そんな会話が終わり、少し落とした目線の先。 もぞもぞと、ズボンのポケットのあたりを触りだす、俊明の手が映った。
ーー携帯だった。
「洋子、コンビニに行ってくるよ」その声のトーンに、嘘はなかった。だけど不安な私は「何を買ってくるの?」そう普段通りに、尋ねてみた。 「缶ビールだよ」俊明の台詞。これは二人にしてみればもう合言葉同然だった。
「あぁ。うん」引き止めようと、こちらの声は届かないのはもう知っている。そんな簡単なことじゃないのは分かっていたから。
「栄治さんね?」麻薬取引の件に対してここは私の出る幕じゃない。
でも、ずっと最後まで信じていたい。
俊明のこと……。

<コンビニに行く>という彼の台詞のあとの、静寂。いつもその台詞の後に静かに閉じられる玄関のドアの音が、恋人としての時間に何度か終焉へ鐘を鳴らしていた。
栄治さんが襲われた日。俊明が行方をくらましたのはそんな不穏な鐘が、五回目鳴った時の事だった。 それは、これから私が向かう追憶の旅の中で、語ろうと思う。 
私の声を聞いていてください。

迷子みたいに、ガードレールにもたれた私の足はあのアパートへ気づけば向かっていた。
距離は遠すぎるけど、確実に。二人で暮らしていた思い出のアパートへ。
時を重ねた、アパート。
今、頼りない手にいつの間にか鞄から、出所した時に貰った身分証明書を、取り出して握っていた。これからの生活は、どうなっちゃうのかな? 
出てこれたのはいいけど……。
何台か車が、正面から走ってくるのが見えた。今の私の気持ちじゃ、それは未開地の化け物と変わらなかった。黒い車、赤い車。
「あの時と同じだわ」急に、フラッシュバックした光景が、脳裏へと叩きつけた。秘密にはできなかった、あの夜の事。

夢に出てくる、少年の霊。
私は俊明とセックスをしている。アパートの窓際の布団の中。
男の子の霊は、窓の向こうからこちらを見ている。「子供が見ているわ」「関係ないだろ」「やめましょう」二人の会話。彼のペニスは、甘い夢の輪郭を突き刺した。いつもそこで終わるの。酷い夢。
身分証明書と、刑務所内で稼いだ僅かなお金、いくつかの返ってきた所持品。
心にはぽっかり、穴の空いた空白だらけだった。生きている保証もない。明日自殺してしまうかもしれない。誰にも悟られず。
出所したその日、私はあのアパートには帰れなかった。
約一ヶ月後。夏が終わりを迎える頃。
思い出の何もない、新しく借りられた安いアパートの屋根の下。私は物思いに耽っていた。
もう二度と重なることのない敷き布団。
出所しても、重度のパニック障害を抱えて、殆ど眠れない夜を過ごしていた。夜が来ても全然眠れやしない。
朝の陽を、布団の横で迎える事もザラだった。
このアパートがあるけれど、そんなもので私の今後が保証されるわけもないわ。
でも、俊明が帰ってきたとして、心の溝は?  そんなもの、埋まらないことは分かってた。 
テーブルの下でうずくまっていた鞄の中、携帯電話の着信が鳴った。
「誰からなの」物もあまり食べていない掠れた声で、私は這いつくばるように携帯の画面を見た。
そこには、高校時代からの親友の、柏木春香の文字があった。
「春香……?なんで」
光り続ける、点滅。
そういえば、私が真っ先に携帯番号を登録したのは、春香のだった。
生活保護の件でお世話になっている市役所の人。 精神科の先生にだけしかもう一ヶ月くらいは話はしていない。声を聞かせてない。
それで高校時代からの親友になんて私は応えればいいのだろう?
〈恥ずかしい〉の五文字しか、私の頭の中にはなかった。
<このまま切ろうか?>
<せっかく、掛けてきてくれたのに?いや冷やかしかもしれない>
「なんてひどい事!」私は、自分がそんな事を思ってしまったのを酷く後悔した。
そして自分に無性に腹が立った。
「もういや!」親友からの着信音は、そのまま床で鳴り響くまま。だけど救いを求めるように手はまた携帯の方へと伸びていた。
ピッ。
私は意を決して親友の電話に出てみた。
「洋子?」久しぶりに、春香の声を聞く。夢、みたいな。
「もしもし」掠れた声で、そのまま私は言った。 「洋子ね?……手紙、読んだよ。今は一人暮らししてるのね」優しい春香の声。何も変わっていない。悔しかった。疑ったこと。
「私、生きていていいのかな?」蛇口から水滴が落ちた時みたいな、静寂。
弱音が一瞬にして飛び出していた。
「え?あのね?」しばらく沈黙して、春香は言葉を続けた。
「洋子は、ずっと、私の友達なのよ?私は知ってる。あの時からずっと洋子が悪い訳じゃなかった、って」胸の奥を抉られたような痛み。優しい声に慣れない。凍りついた。
「庇わなくていいの。だって……私は私のためだけじゃなかったのよ!」言葉を言い終えた後、涙が止まらなくなり私は噎び泣いた。
「大丈夫。大丈夫。洋子の味方、私は洋子の味方。ずっと」春香の声は、優しかった。世界で一番。でも、どこか遠くの世界で反響してこだましている声にも聞こえたのは、事実だった。「どこにいっても、私は……罪を犯した人なの。それは消せない。でも」
〈あの人のため>
「ご飯食べれてる?」春香は、泣きそうになりながら言ってきた。
本当に、何も喉を通らない。
そんな日がずっと続いてる。魂が抜けたみたいに、ずっとそう。
でもこれ以上本当のことは、言えなかった。 「ううん。大丈夫食べれてる」

窓際から、男の子が覗いてる気がした。「きゃああああああ!」私は咄嗟に、叫び声をあげた。「洋子?どうしたの?」春香の声が床に投げられた電話から、響く。そこで、私が見たのは、あのたまに見る夢の中の。
男の子だった……。

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