About me

自分は生粋のシンガポール人で、親の仕事の関係で5歳ごろに日本に移住しました。移住して以来、高校卒業まで日本に住んでいました。

日本に移住したての頃

この話はたまにするんですが、日本語が本当に一言もわからない状態で親に当時住んでいた県の現地の幼稚園に放り込まれました。当然のことながら周りが何を言っているのかはわかりませんでした。まあ幼稚園のことですし、必要とされる語学力なんていうものはあまりないですが、園児としても本能的に「意思疎通ができない」というのが辛くて毎日ずっと泣いていたのを思い出します。自分ながらに面白いエピソードっていうのが二つくらいあって、一つ目は幼稚園に母親が持たせてくれたおやつ用のミニドーナツが没収されたことです笑。日本の学校って本当に謎ルールみたいなのいっぱいありますよね。「授業中は水飲んじゃいけない」とか「小学校まではシャーペン禁止」みたいな笑。その没収されたドーナツは果たして返されたのかちょっと覚えてませんが、ドーナツ持っていっただけで怒られて凄い困惑したのは今でも忘られません。二つ目のエピソードはある日、その日着ていた長袖を失くしてしまって困っていたところ、同じ長袖を着ていた子がいたのでその子が間違えて取ったと思って返して欲しかったけど日本語が喋れず困ったことです。もう最終手段として手話的なものを使いましたが案の定何も伝わらず落胆していたところ、先生が自分の長袖を持ってきてくれました。なんと自分と全く同じ柄の長袖を別の子も着ていたというオチでした。

自分だけでなくもちろん両親も日本語には苦戦しました。語学学校とか事前に行ってたみたいですが。でもやはり子供の脳ってスポンジみたいなもので、子供の自分はどんどん日本語が上達していきました。今いざ振り返ってみると思うんですが、日本語何もわからない状態で日本移住を決意した両親は本当勇気あったなと。

小〜中〜高まで

小学校から中学校にかけてまた親の仕事の関係で九州から北陸地方に引っ越すということがありました。シンガポールみたいに暖かい気候から冬の寒さが厳しい雪国に移るにあたって、慣れは必要でしたが次第に冬が好きになりました。小学校中学年から中学校まではエレベーター式に学年のほぼ全員が同じ中学校に上がるので今でも連絡を取るような仲の友達が何人もできました。

ちなみに日本はシンガポールみたいにPSLE(Primary School Leaving Examination)と言った必須の中学受験はありません。が、うちの母親は教育熱心なTiger momなので塾に通って中学受験をしました。SAPIX通って難関中学合格目指す!まではいかないですが小学生にしては結構勉強頑張っていたと思います。

結果は残念ながら不合格。人生で初めて頑張ったのに報われず「悔しい」と思って泣いた瞬間だと思います。

高校ではまたまた良い友達ばかりに恵まれました。兵役の2年間は正直家族に会いたいというよりかは日本にいる友達に会いたいと思っていたくらいです。


高校卒業〜現在まで


大学受験は地元の医学部を目指して勉強を頑張っていました。半分実力不足・半分運が悪かったのもあり、受験は思い通りにはいきませんでした。詳しくはまた話したいと思います。

高校卒業後、すぐに兵役のためシンガポールへ帰国しました。不幸中の幸いで、当時はコロナがまだ流行ったばかりの時期だったため、兵役の最初の1ヶ月目はzoom越しでした。こうして始まった2年間の兵役はあっという間(当時は永遠に終わる気がしなかったけど)に終わり、アイルランドの大学に通うことになりました。



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