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(多分)社会不適合者を受け入れる話

皆様は性格診断というものをしたことがあるでしょうか?
簡単なものから、複雑なものまであるとは思いますが、私は性格診断系統が好きで見かけたら結構何でもやっちゃいます。
そうして色々とネット上で診断を進めてるうちにふとある共通点が見えてきました。

お勧めされる職業毎回芸術家系統

そんな遠回しに社会不適合者って伝えなくても良く無い?
だけれども、診断結果は診断結果。
所詮ネットの戯言と切り捨てても良いかもしれませんが、少なくとも

診断を作った第三者から社会不適合者と認定された事実

は何一つとして変わりません。
悲しいですねぇ(他人事)

「社会不適合者」は前提として置いといて、ふとその「社会」の定義が気になりました。
そもそもの「社会」とは何なのでしょうか。
私が思う社会は=会社です。
「人との関わりを得てお金を生み出す」ことが社会であると思っています。
そしてその関わりに「向いていないよ君〜。君がいたら潤滑に物事が進まないよ〜」と言われてるのが「社会不適合者」だと、解釈しています。
ここで私が抱く不安は「一種のコミニュティに属せない、突き放された」という物ではなく、「お金を稼げない、生きていけない」という不安なんですよね。

そう根本的に社会不適合の烙印を押されたなら、押されたままで良いと思っているんです。

人との交わりを少なからず軽視してるんですよね。大事なのはお金、であり、私は私自身の社会(人との関わりが軽薄な社会)の中で生きていると思ってる節があります。

多分そこが社会不適合であるが所以なんだろうね!

しかし、一体どうしてこうなってしまったのでしょうか。
思えば私は一人っ子で、小さい頃から誰かと遊ぶことはあれども一番好きなのはおもちゃなどを使って即興劇を作る事でした。
欠片はあったのです。
だけれどまぁ1番の原因は小学生の時にネット掲示板に出会ってしまったことかなぁと思います。
ぐにゃあと捻じ曲がりましね、ぐにゃあと。

まぁそんなちょっとした過去は置いといて、ここまで不適合を極めて仕舞えば当然、考えてしまいますよね。

生きてる意味ってあるのだろうか と

別に死にたいとかそういう訳ではなく、客観的に、ごくごく客観的に物事を捉えた場合。
社会のお荷物である私は死んだほうがいいのではと、そうすることでしか他人が定義する社会の役には立てないのでは無いかと考えてしまいます。

…おや、「そんなふうに考えるぐらいならそもそも順応しろ」と聞こえますねぇ。
どんなに取り繕うと人の心根は変わりません。
私は私を偽って人当たりを良くしてる方がよっぽど死んだ心持ちになります。
そうして適合能力を高めても、いずれボロが来るでしょう。(というか、きたことがあります)
ですから、私は不適合を受け入れます。
受け入れた上でどのような行動をするか、少しでも私が思う社会に役に立てる様にと考えます。
(その結果=死なのですが…)

ですが、まぁ死ぬのも楽じゃありません。
死体や死に場所の問題だってありますし、親より先に死んだら葬式とか大変じゃ無いですか。
第一何よりまだ死にたくはありません。
本能ですよね。人に備わった。
というか、そもそも

不適合だと言われてるのに他人の社会に付き合う義理って果たしてあるんでしょうか。

別にいいじゃないですか。先に見捨てたのそっちなんだから()
迷惑かけて生きてやるバーカ、バーカ。
まぁお金だけ稼げたら後はどうでもいいですかね。(未来は色々と暗いですけれど)

まぁそんなこんなで纏ってるかどうかわからないこのオチで筆を置きます。
ここまで見て頂き有り難う御座いました。

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