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編み物とおばあちゃんの話。

寒くなってきたら、編み物が楽しくて全然読書が進まなくなってきた。まあ、他にも要因はあるんだけどそれは一旦置いておいて、編み物の話だ。

編み物。最近は100均でも色々な毛糸があるし、編み針やその他必要な物品もひと揃い売っている。なんなら教本まで100円(税抜き)で買える。手軽に始められるようになったなあと思う。

私が編み物を始めたのは、祖母がきっかけだった。

私は子供の頃は原因不明ながら体が弱く、1日学校に行くということがなかった。ただ、小学生の子供を1人で家に置いておくことを母は不安がって、色々な事情から、母方の祖父母のところに預けられることが多かった。私も祖父母が大好きだったので、小学生高学年や中学生になっても祖父母宅に入り浸っていた。

祖父母宅には元屋敷があって、祖父はそこで好きなサボテンを、祖母は花や野菜を育てていた。私は祖父母について回って花のお世話や野菜の収穫をよく見ていたし手伝っていた。

祖父はラジオを聞くのが好きで、祖父母宅にはいつもNHKラジオ第一が流れていた。いつの間にか私も一緒に聞くようになり、母と車で出かける時にはカーステレオでラジオを流すようになった。

祖母は、手芸が得意だった。裁縫も編み物も、目が揃っているし手が速い。年代からして、趣味というより必要に迫られて習得したのだと思う。祖母が現役で使っていた足踏みミシンと編み機は、当時の私にとっては見たことの無い魔法の機械だった。

遊びに行くと何か作っていることが多い祖母に、手芸を教えて欲しいと言ったのがいつ頃のことか、私は全く覚えていない。たぶん、小学校高学年くらいだろうか。

最初に教わったのは、編み物ではなく裁縫だったと思う。お手玉を一緒に作った。もう作り方は忘れてしまったけれど、祖母の家にあったはぎれを色々組み合わせて作るのが楽しくて、全然上手くできないし、作ったところで遊べないのにたくさんお手玉を作った記憶がある。

ただ、私の家にはミシンがなく、母も裁縫をあまりやらないので、ここから趣味としては発展しなかった。

編み物を教えてもらったきっかけは覚えていない。ただ、祖母の性格からして、たぶん私が教えてとねだったのだろう。最初は編み針も毛糸も祖母のものを借りて、かぎ針編みから始めた。

楽しかった。

どうして1本の糸からこんなに色々なものが出来るのか、教えてもらいながら全然わからなかった。でも、祖母と一緒に編み物をするのが、ただ楽しかった。

初めて作ったのは、四角いモチーフ編みを組み合わせたひざ掛けだったと思う。

それから、棒針編みも教えてもらって、祖父母にゴム編みのマフラーを作った。色違いで作ったマフラーを、祖母ならもっと手の込んだものも作れるだろうに、2人ともとても喜んでくれた。冬、元屋敷に出かける時に、2人ともそのマフラーを使ってくれていたのを今でも覚えている。

この楽しかった、嬉しかった記憶があるから、たぶん今でも編み物が楽しい。

祖母とは違い、セーターやベストなんかはあまり作らず(とじはぎがどうしても苦手)、小物ばっかり作っているのだけれど。

今年は、読書メーターでお世話になっている皆さんのイメージグッズ製作なんてものにまで手を出している。例えばこんな(勝手なイメージで作っております、ご了承ください)。

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新しいものを作りたくなった時。自分のイメージを形にできた時。どうやって作るのだろうと思っていたものが形になった時。このワクワクが、私は好きだ。



祖父は、私が大学生の時に亡くなった。

祖母は、持病のため療養病院に入院して2年になる。


祖母は、ベッド上安静ながら、ベッドに体を起こして今でも編み物をしている。病院なので針は持ち込めず、裁縫は出来なくなってしまったけれど、その代わりのように編み物に精を出している。私も、コロナ以前には月1回くらい会いに行っていたが、その度にベストだのマフラーだのと新しい作品が1つ以上は完成している。看護師さんにも祖母の編み物は有名なようで、よく声を掛けてもらうそうだ。

祖母が少しでも、編み物をしながら楽しい日々を過ごせるなら、とても素晴らしいことだと思う。

それと同時に、今は会えなくなってしまったけれど、編み物を通して、祖母と一緒にいられるような気もしている。何かを共有している、という気持ち。それが、私の編み物の楽しさの一端を担っている。

ありがとう、ばあば。また一緒に編み物しようね。


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