医道について① 道とは何か
上記雑誌にて「日本の「強さ」とは何か 亡国を救う「道」の思想」という特集があった。そこに掲載されていた座談会の一部が上記ページに無料公開されているので、少し引用させていただく。
「「らしさ」を引き受ける「道の思想」とは、単なる社会的な役割の肯定というよりは、自然(天)によって与えられた自己の「分際」の自覚に根差しているのだということ」「その「道」を極めることによって、浮動する世間的評価からの「独立」を守ることもできる」(浜崎洋介氏)
「一つの仕事を極めると、他の全てにも通じるような人生訓とか、ものの見方に辿り着く。それこそヘーゲルが言うところの「人倫」に至る」「わざを磨く、修行する、芸事なら稽古する。そこで得られるのは礼儀作法だったり、具体的な道具の使い方だったり、状況依存的な知恵だったりするのでしょうが、続けていくと他の世界にも通じる普遍的な「道」が見えてくる。そういう生き方が、前近代には分かりやすく存在したと思うのです。」(柴山桂太氏)
ところが、「ウェーバーが言うように、個々人のわざの継承に頼るのではなく、没人格的な組織で変化に対応するというのが近代企業」(柴山氏)であり、「「道の思想」で重要なのは、それが近代の個人主義や自由・平等の原理とは馴染まないこと」(浜崎氏)のため、「道」などというと鼻で笑う輩が、おそらく保守主義を名乗る人間の中にすら、多い。この思想は「言語化が著しく困難」であるがゆえに「普遍化が困難」、そして「なにしろ習得に時間がかかる」からだろう。もはや風前の灯にあるのかもしれない。
しかし、私は、いかに古臭いと言われようと、少なくとも自身の職業においては、「道」という思想は非常に重要だと考える。
私は医師として日が浅かったころに、幸運にも4人の尊敬すべき師と出会った。患者との対話と説明の仕方、治療の選択、学問としての医学への向き合い方、後輩医師への背中の見せ方、指導の仕方、など、師の姿から多くを学んだ。医師として経験を積めば積むほど、そして知識や技術が新しくなればなるほど、私の中でこの4人の師から得たものの重要性は大きくなる一方だ。この「師から得たもの」は、私の臨床での対応や医学に対する考え方の端々に表れているのだが、それを的確に言語化しようとすると恐ろしく陳腐になりそうだし、自身の現在の価値観で大きく上書きされた内容になるだろう。ゆえに最も普遍的な部分は、言葉ではなく、「師弟関係」という関係性で同じ空気や状況を共有し、そこでの師の振る舞いを見る以外には伝承できないのではないかと思う。だが、これはそもそも、伝承が継続しており、継承できる「師」が存在していることが前提条件だ。今の医師は雑務や知識習得に追われるが故に、この伝承自体を軽視しているように思えてならない。
また、タイトル画像に使用した「道」の字を書いた(ことになっている)某アニメのキャラクターの名言「寄り道、脇道、回り道。しかしそれらも全て道!」という言葉のとおり、一見非効率で無駄に思える経験や選択としても、その過程で自身の「分際(その人それぞれに応じた程度)」を知る。そして、自身の感情や肉体感覚を伴った「知恵」や「わざ」を得る。これらが容易く手に入ると思い上がっている輩がいつも世にもいるが、それは想像力や情報処理能力が異常に発達した人間だけが可能な離れ業であり、圧倒的多数の凡人は表面上は「分かったつもり、できたつもり」でまがい物を披露し、なんとも見苦しい姿を見せている。このコロナ騒動で、そんな姿を衆目に晒していた医師のなんと多いことか!
偉大な詩人かつ評論家であるフランスのポール・ヴァレリーは、1925年に発表した「知性の危機について」という文章の中で、「道」を喪失した医療の姿を予見していた。下記書籍P.205「今日の医療批判」より、「もし医学がいつの日にか、診断と治療の領域である精度のレベルに達して、ただ定義され、きちんと整理された一連の行為を実行するだけでよいことになれば、医者は治療科学の非人間的な一媒介物にすぎなくなり、その魅力をすべて失うことになるであろう。」と。その上で著者の古川先生は、「自分で考えることなく、マニュアル通りに従順に行動する人間(筆者注 ここでは「医師」のこと)がいかに多くなったことか」と述べておられる。
「道」を失い、己の「分際」を知らず、「世間的評価」から独立できず、権威に従順であることのみを是とする、我々が理想としていた医師像とはこんなものだったのだろうか?