推進派が暴走した根本原因について、戦後予防接種行政の変遷から考える②

 当たり前のことだが、「予防」という概念は、そもそも科学的不確実性が付きまとうものである。
 最近、例のワクチンの議論にて「科学では議論など無意味なんですよ。事実だけが採択される。」という愚説を垂れ流した歯科医(?)がいたらしいが、実際そう思っている医療者は(特に医クラと呼ばれている人々に)多いのかもしれない。いや、「医クラ」ではなく、いわゆる「学校秀才」に多い、と考えるべきかもしれない。彼らは恐らく人間の理性と知能を信頼しすぎているんだろう。人間理解が極めて浅く、あまりにも傲慢で幼稚でお話にならない、と言っておく。
 言うまでもないが、現実は違う。いくら現時点で議論を積み重ねても、将来的に誤りと判断されることは多い。そもそも、現時点において自分の仲間内で共有されている「事実」というものが、将来的に「事実ではない」と判断され得る可能性は、常に考えておかねばならない。これは人間が世界の全てを把握することが不可能で、かつ感情を持っている以上、仕方がないことだ。しかし、諦めてはならない。権威者の言葉やお手軽な陰謀論に、安易に流されてはならない。現時点の「事実」は確かに不確実性にあふれたものだけれど、我々はそれに一歩でも近づくために足掻かねばならない。これは現時点で生きている人間が、将来を生きる人間により課された義務である。将来に対する責任である。だから、人間は過去から現在まで、自分の手で調べ、確かめ、考え抜き、議論してきたのだ。
 そして科学も、そんな人間の営みの一つである。現在の「科学的事実」と言われているものは、過去の人々の足掻きの上に成り立っているのだ。だから我々も同じように足掻かねばならないのだ。その点は謙虚になるべきだと思う・・・
と、今読んでいる本の第2章に触発されたことを言ってみた👇

 それは予防接種行政も同じである。
(以下、前回同様、👇の書籍を大いにs参照している。本当に、もっと読まれて欲しい。)

不確実性の下での意思決定である以上、過誤は避けられない。
その過誤は
①対処すべき問題があるにも関わらず対処しない過誤
②対処すべき問題がないのに、誤って何らかの行動をとってしまう過誤

であり、①を「不作為過誤」②を「作為過誤」と呼ぶ。

 この2つは、時間や資源が定まっているとき、その発生確率を同時に下げることはできない、という。つまり、
・「作為過誤回避」に重点を置いた場合、時間的制約、つまり急を要する事態であるか否かよりも、「その対処が選択される根拠」がいかに確実性を有しているか、を重視して意思決定を行う。これにより、不確実な作為を避け、作為過誤の可能性は減らせる。その一方で、不作為過誤を招く可能性は高まる。
・逆に「不作為過誤回避」に重点を置いた場合、「その対処が選択される根拠」の確実性よりも、何もせずに放置することにより生じると予想される結果、を重視して意思決定を行う。これにより不作為過誤の可能性は減らせる。その一方で作為過誤を招く可能性が高まる。
のである。

 このようなややこしい問題は、制御できないと考えられてきた事象が、制御・管理できる(と、人間が思い込むようになった)事象へと置き換えられていく過程の中で発現してきた、近代社会特有の問題である、という。つまり、過去の積み重ねが不足しており、他の問題以上に、現時点を生きる我々が、様々な立場・現場で考え抜き、議論を尽くさねばならない問題なのである。ましてや、「ウイルスを社会的に制御することを目論む」というような、極めて新しい概念への対処を、専門バカのような視野の狭い人間たちだけに任せていたら、調子に乗って暴走し失敗するのは当たり前なのである。これはワクチンだけでなく、コロナ対策全般に言えることだ。
 
 さらに厄介なことに、新たな制御対象が現れることで、それまであえて問われなかった責任が新たに顕在化し、その責任をどのように分担するかが問題になる、という。であるならば、責任回避傾向の強い社会では、責任がたらい回しされる可能性が高いだろう。
 対処に対する「責任を分担する」という発想はなく、皆が「過度な責任を負わされる人柱」を希求している。ゆえに、その対処を選択したことを判断したことに対する責任の所在があいまいで、誰もが言いたいことを言うだけで、責任を負おうとしない。
 その結果、先行して作為を行っていた他国のデータが作為過誤の可能性を示してくれていた時期を逃し、それどころか現在においては自国においても作為過誤が明らかになってきているというのに、誰も止めることができない。過誤を意地でも認めない人間の暴走を止める術もない。
 まさに、どこかの国で、今見られている事態そのものである。その国は、見せかけは近代化していても、恐らく精神的に中世のままなんだろうね。
 私は見境のない進歩主義は嫌いだけど、流石にこのままでいいとは思えないです。

・・・今回も「戦後予防接種行政」そのものに踏み込まないまま終わってしまった。何故、今回不作為過誤が重視されてしまったのか、作為過誤を意地でも認めない人間が現れるのか、その点を考えねばならない。


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