推進派が暴走した根本原因について、戦後予防接種行政の変遷から考える①

 現在徐々に明らかになってきているmRNAワクチン禍の惨状は、慎重派が当初から危惧していたとおりであり、「だから止めとけと言ってたのに・・・」としか言いようがない。
 止められなかったのは誠に無念だ。医療者の一員として申し訳なくて仕方がない。しかし、推進派の暴走は、正直私の予想を上回っていた。そこには、己の出世のため、自己顕示欲を満たすため、というのは当然あっただろうが、それを超える「怨念に近い執念」を感じた。
 
 思えば、私が子供だったころは、インフルエンザ予防接種は学校集団接種が普通だった。まだまだ予防接種の「社会防衛」機能が重視がされていたのだ。それがいつのころか、集団接種は無くなっていた。MMRワクチンにおける薬害事件などもあり、乳幼児期の予防接種も控える方々も増えた。今や予防接種は「個人防衛」機能のみ重視され、接種するしないは個人や保護者の判断にゆだねられている。その挙句に、他国では使用されているHPVワクチンですら使えなくなってしまった。
 この状況を歯がゆい気持ちで眺めていた「公衆衛生」や「感染症」の専門家は、少なくなかったのではないだろうか?彼らは、かつて予防接種に与えられていた「社会防衛」機能重視の復活を目論んでいたのではないか?そんな彼らにとって、新たなウイルスの出現及び西側諸国への拡大と、それによる社会混乱は、待ち望んでいた絶好のチャンスだったのではないだろうか?・・・・と。

この点をはっきりさせるためには、過去の予防接種の立ち位置がどのように移り変わっていたのか、過去を知らねばならない、と思い、👇を読んだ。

 素晴らしい内容だった。
 同書に沿った表現を使用すると、前述した内容は以下のように言うことができる。
 予防接種とは結局のところ、作為過誤と不作為過誤を、いかにバランスよく回避するか、回避できなかった時にどこが責任を負うのか、という点が重要である。我が国で「不作為過誤」が過剰に重視されていた時代は、主に昭和期に、確かにあった。その後、衛生状態の改善や社会の変化などにより、ここ最近は「作為過誤」重視が主流になっていた。私としては「当然の変化だろう」としか思えない。しかし、過去の夢となった「不作為過誤」重視を諦められない人間が医療行政に影響力を持つ人間の中に少なくなかったのではないか?そんな彼らの「ココロのスキマ(by 喪黒福造)」に製薬会社が入り込んできた、ということなのではないか?
 
 ちなみに、ものすごく簡単に言うと
作為過誤 ➡ やって後悔する
不作為過誤 ➡ やらないで後悔する
である。
 かつて「やらないで後悔するより、やって後悔したほうが良いって言うでしょ?」という名言を遺した人👇がいたが、もちろん現実はそういう訳にはいかない。今回のワクチン禍を引き起こしたのも、まさにこの発想だったのだと思う。

朝倉涼子さん(画像は「涼宮ハルヒの消失」)

次回から、現在につながる予防接種行政の変遷を振り返ってみる。

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