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推進派が暴走した根本原因について、戦後予防接種行政の変遷から考える④ジフテリア予防接種禍事件

ジフテリア予防接種禍事件

 ジフテリアはジフテリア菌の上気道感染により発症する。私は罹患したことはないが、咽頭痛と腫脹が強く、さらに粘膜に偽膜が形成されて稀に気道閉塞を起こすから怖い、と子供のころから聞いていた。さらに、菌が産生するジフテリア毒素が血流に入り、それが臓器障害を起こす。特に多いのが心筋炎、神経炎だそうで、上気道症状出現後しばらくしてから起こることから「後麻痺」と言われている。なかなか厄介な感染症である。
 
 前回記載したように、昭和23年7月に予防接種法が施行されたが、その直後に、事件はまず京都で起こった。11月4日、5日に接種した乳幼児に症状が出現し、68人の死亡者を含む606人の被害者を出した。
 10日後、島根でも同様の事件が起こった。島根での接種開始時点で、京都での事件はロット番号1013がどうも怪しいのではないか、ということが明らかになっており、既に島根にも通知されていたにも関わらず、島根ではロット番号1012と1014が使用されていたという。こちらも16人の死亡者を出した。
 この事件の原因は製造過程、検定過程の両方にあることが疑われた。製造元である大阪日赤医薬研究所が薬事法によって決められた製造過程を踏襲していなかった。一方、検定に関しては、ロット番号1013のうち、バイアル番号1~500までは毒性がなく、501~1000の多くに毒性が残っていたことがわかっており、検定資料の抜き取りに問題があったことが指摘された。
 この事件は、薬事法違反で厚生省が大阪日赤医薬研究所を告訴する、という事態となった。裁判の結果、製薬会社側は有罪となり、実刑を受けた被告人もいた。一方、検査官(大阪府衛生部から出向していた人らしい)は無罪となっており、結果的に製造者の責任のみ問われることになった
 とはいえ、裁判上は無罪でも、厚生省は監督責任は免れず、GHQから政府の責任を指摘されることになった。結局、検定責任は回避することはできず、12月にはジフテリアだけでなく全ての施行予定のワクチンを回収し、再検査することとし、翌2月に一部再開されるまで、予防接種法は一旦中止されることになった。これにより再発防止に対して策を打った、という体裁をとることとなった。
 しかし、これには根本的な問題がある。業者や検定の責任は問われているが、「強制接種」という制度の責任は問われていないことだ。予防接種には一定の副作用、つまり作為過誤が避けられないことを考慮すると、接種の是非を選択するという「個人の判断を尊重する機会を」剥奪している「強制」そのものが問題という認識が生まれるはずだ。
 また、1964年にGHQが厚生省にジフテリア予防接種実施を勧告した際、「3か月以内で実施体制を整える。そのための計画書を1か月以内に提出」と命じていた。つまり、厚生省は相当急かされてたらしい。一方で、製薬会社が薬事法に定められた製造過程を経ることができなかったのは、当時の製薬会社の技術及び物品不足が原因であった。つまり、安全なワクチンを供給できる環境が整っていなかった
 
 これは、「見切り発車」、と表現しても差し支えないように思う。強制接種とするには、あまりにも作為過誤が発生しやすい状況だったのである。
 しかし、業者や検定に責任がある、という認識に留めることで、「強制」の責任問題は欠落してしまった。
 この3年近くの間に散々見せつけられた一度決定した方針は何が何でも維持する、というこの国の無責任な性格は今も昔も同じなのだ。
 この後も、不作為過誤回避指向は継続していくこととなる。それどころか強まっていくことになるのだ。

ジフテリア予防接種を強制する必要性はあったのか?

 ところで、この事件の最大の問題は「焦って強制接種を行う必要があったのか」、この一点である。
 それに関して、興味深い指摘がされている。
 👇は国立感染症研究所が提示しているグラフを見やすくしたものだ。同所が提示している元グラフは図の下のリンクにある。

薬事日報社「薬害の教訓」p.17より

 一応言っておくが、Dはジフテリア、Pは百日咳、Tは破傷風である。
 ただ、このグラフは発症数の推移を示すことが目的のはずなのに、縦軸が対数目盛のような感じだったり、戦前の発症数が提示されてなかったりする。「ワクチン接種の有効性」を強く主張しているように見える一方、「発症数の推移」のみを示すには不親切な感じである。
 そこで、和気正芳氏という方が、対数目盛ではなく実数の均等目盛に変換して提示したのが、👇である。

薬事日報社「薬害の教訓」p. 18より

 ちなみに、こちらのグラフは公的機関からは公表されていないからか、あまり広まっていないようだ。
 このグラフで読み取れることは以下の点である。
・1930年以降が分からないものの、1931年の満州事変から始まり、1945年まで続いた十五年戦争の間に大きな発症の山がある
・特に日中戦争がはじまった頃から増加のスピードが増し、終戦直前がピークになっている。
戦後に急激に発症数は低下している(そして、予防接種開始とともに低下のスピードが鈍った、と意地悪な解釈すらできてしまう)。戦前の発症数が分からないからなんとも言えないが、結局栄養状態の改善などが発症を左右しているだけなのでは?という可能性も考えられる。 
・少なくとも、昭和23年(1948年)には発症者は激減傾向にあり、余裕を持って用意できていたのならともかく、わざわざ突貫工事のような無理をしてまで強制予防接種を行う必要はなかった、と言えるのではないだろうか?
 
 ・・・まあ、こういう解釈をしたくないから、対数目盛のグラフしか出せないんだろうな、とは思う。
 彼らは決して嘘はつかない。ただ、見せ方が小賢しい。この3年近くの間、散々目にしてきたことだ。
 「君らが目の敵にして「反ワク」とレッテルを貼る思想を生み出している原因は何にあるのか、自分の胸に手を当てて考えてみたら???」と言いたくなる。

 ついでに言っておくと、この点は今後改めて触れると思うが、DPTワクチンは昭和50年(1975年)2月~4月まで接種が中止されており、その後しばらく接種率はなかなか回復しなかった。その結果、百日咳の発症が急に増加してしまうというという、いわゆる作為過誤回避指向により不作為過誤が生じるパターンが生じた。

藤原書店「戦後行政の構造とディレンマ」P. 208より

 一方、同時期のジフテリア発症数の対数目盛グラフを👇に抜粋すると・・・実数目盛はもちろん、対数目盛ですら中止の影響がほとんど見られないように見えるのは私だけなのだろうか?少なくとも、百日咳が急増している時期も、ジフテリアは、もちろん多少の増減はあるけれど、全体的な傾向としては発症数・死者数は減少しているようにしか見えないのだが。

 結局、ジフテリア発症は栄養状態と環境(衛生状態や暖房の有無など)が発症に強く関与しており、少なくとも百日咳ほどにはワクチンの有無に左右される感染症ではないように思うのだが、どうなんだろう?

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