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精神病患者としての左翼──岡田索雲『ようきなやつら』感想

 先週公開された岡田索雲の短編漫画「アンチマン」が面白かったので、作者の過去作である単行本『ようきなやつら』(双葉社)も読んでみたところ、予想外な面白さがあったので、感想を書いておく。以下、ネタバレ要素があるので、買う予定がある人は買って読んでから見てほしい。

◆ゴリゴリの左翼マンガ

 この単行本は、「妖怪読切シリーズ」として書かれた5つの短編──「東京鎌鼬」「忍耐サトリくん」「川血」「猫欠」「峯落」「追燈」──に、書き下ろし漫画「ようきなやつら」を加えてまとめた短編集だ。読み切りなので、各エピソードはある例外(後述)を除いて独立している。語られるテーマも多岐に渡り、単純化することは難しい。

 しかし、誰が読んでも共通して持ちそうな疑問が一つだけある。それは、「この単行本はなぜこんなに〝ゴリゴリの左翼〟なのか?」というものだ。

 たとえば、「川血」は日本の人種差別、「峯落」はMeToo運動を間接的に、「追燈」は関東大震災での朝鮮人虐殺を直接的に描いている。「東京鎌鼬」は「性的同意についてのはなし」というキャプションをつけてTwitterに投稿された。また、「あとがき」で挙げられている各話の参考文献もその左翼性を証明している。

 ここでいう「ゴリゴリの左翼」は、いわゆる「リベラルさ」とはまったく異なるものだ。最近のマンガは、昔より様々な価値観に配慮するようになった。マイノリティを描く作品も多くなった。それらの漫画はある程度「リベラル的」と言えるだろうし、同時に巷に溢れている。

 しかし、それら巷に溢れた作品と、『ようきなやつら』の持つ〝ゴリゴリの左翼さ〟は、方向性が真逆だ。ポイントは、この漫画が、ほかの「左翼的」なそれとは異なり、さまざまな価値観に配慮していない・・・・・ことにある。言い換えれば、「リベラル」ではない「左翼」としての立場が貫かれているのが本作の第一の特徴である。

「峯落」はその特徴が最もよく現れたエピソードだ。舞台は前近代の荒くれた山村。普通なら男しか登場しない次期頭領を決める選挙に、山姥・マサリが出馬する。村の男・フジトは、彼女にこう問いかける。「山…動きますかね…?」。マサリは答える。「動かしてみせるさ…」。これは1989年、日本社会党党首・土井たか子が参院選で大勝した際に放った言葉「山は動いた」の引用だ。それは、合法的に社会を変える思想、清く正しく妥協しながら世間に立ち向かう意志を象徴している。

 ところが、山は動かなかった。マサリは、村民たちの前で前村長に受けたレイプ被害を告白するが、まったく受け入れられない。それどころか、次期頭領の候補者資格を剥奪され、「嘘つき女」として拘束されてしまう。そして、彼女を助けようとしたフジトが村の男たちにリンチされたとき、堪忍袋の緒が切れた。「山を動かすのはやめだ…崩す」と呟き、マサリは村の山男を殴りまくる。そこへ、いかにも良識的な顔をした(そしてマサリが拘束された時には何もしなかった)男がやってきて言う。

「落ち着けマサリ…! こんなことしても何も変わらんぞ…」

「峯落」より
「峯落」より

 ゴン・ゴン・ゴン! 抑圧されている者のことを考えもせず、分かったような顔をして妥協を説くリベラルを、問答無用で粉砕する。左翼とリベラルの差はここにある。妥協せよ、配慮せよという主張はひたすら「正しい」ので、リベラルなら葛藤してしまうところ、マサリは戸惑いなく頭突きをかます。こんな左翼的描写が、ダークヒーローやアンチヒーローとしてではなく、普通の主人公の行動として描かれている。これは大変めずらしいことなのだ。

◆代弁してはならないもの

 しかし、作品としてめずらしいからと言って、それがそのままイコールで作品として優れているということにはならない。たしかに、既存のマンガには左翼的な作品が少なかった。だが、それはマンガ家や業界が単に保守的で愚かだったから、ではないだろう。それよりはむしろ、そこに倫理的な問題があるから描けなかったといった方が正しいのではないだろうか。

 とくに、朝鮮人の少年・ジョンスの視点から関東大震災での朝鮮人虐殺を描いた「追燈」では、その倫理的な問題が浮き彫りになっている。「あとがき」で作者は、この作品以前には「朝鮮人虐殺に焦点を置いて描いた漫画作品を(中略)見つけることができませんでした」と書いている。つまり、この短編は、マンガ史上初めて、朝鮮人虐殺を主題として描いた作品ということになる。これは一見良いことのように思われる。この作品によってようやく、今までのマンガが向き合ってこなかった歴史の闇に光が当たったのだ、と。

 だが、それは、なぜ今まで描かれてこなかったのだろうか? 左向きのマンガ家は歴史上たくさんいたし、社会的なテーマに取り組める媒体もあった。朝鮮人虐殺だって最近発見されたわけではない。今までに同じような作品が描かれていても何もおかしくない。にも関わらず、朝鮮人虐殺が漫画のテーマに選ばれてこなかったのはなぜか。おそらくその原因は、「死者を勝手に代弁してはならない」という倫理的タブーにある。

 死者の悲惨さは、当事者にしか描けないとされることが多い。戦争の悲惨さを描いた作品の代表として挙げられる『はだしのゲン』と『火垂るの墓』は、どちらもその悲惨さを自ら体験した当事者が手がけたものだ。『はだしのゲン』の中沢啓治は被爆者で、『火垂るの墓』の野坂昭之も妹を栄養失調で亡くしている。リアルな従軍体験を描いたことで知られる水木しげるの『コミック昭和史』も、水木本人がその当事者であることが作品の大前提になっている。

「フィクションなのだから当事者でなくても好きにやれば良いじゃないか」という論理は、社会的な悲劇の被害者を描く場合に限っては通用しなくなる。とくにマンガにおいてはそうだ。残っている史料をある程度生のままで使うことができる文章と違って、マンガは作者独自の世界観を展開しなければ成立しない。そこでは、ある人物の顔を醜く描くのか、美しく描くのかといったことにすらメッセージが宿ってしまう。読者には美しい方が正義として受け取られてしまうからだ。マンガでは、主人公が悲劇の中で何を考え、世界をどう見ていたのか、作家が語らなければならない。ノンフィクションや小説と比べて、勝手に代弁しなければならない割合が圧倒的に多いのである。

 そう、今まで朝鮮人虐殺が描かれてこなかったのには理由がある。マンガ家には、虐殺の当事者どころか、むしろ加害側の責任を引き継ぐ立場のものしかいなかった。そんな立場の人間が、どうして虐殺被害者の内心を勝手に代弁できるだろうか。

「峯落」の場合も同じだ。私たち読者や作家の大半は、直接間接問わず、つねに「過激なフェミニスト」を異端視し、一時は国民的人気を誇った土井たか子を見捨てて、より中道的な元自民党の野党政治家たち──小沢一郎や鳩山由紀夫──に政治の主導権を託した側の人々、またはその立場を引き継ぐ立場のものである。そういう人間がマサリの内心を代弁し、それに共感するというのは、恥知らずな行動だ。左翼的なマンガが希少なのは、マンガ家とその読者が恥を知っているからなのである。

◆「人権に疎い人間」

 では、仮に作者である岡田が私たちと同じ多数派の人間であったとすると、この『ようきなやつら』もまた恥知らずな作品であるということになるのか。そうではない。実は、岡田は、上記のようなタブーの存在を、作品の中で意識的に描いている。例として、「忍耐サトリくん」を見てみよう。

「忍耐サトリくん」より

 この作品は、人の心が読めることを自称するぼっちの学生・サトリくんが、一見優しそうに見える担任の先生から醜悪な心の声が漏れ出ているのを聴き、ひどく動揺してしまう様子を描いたギャグ短編だ。『女の園の星』や『幽☆遊☆白書』を露骨にオマージュし、「シコってもシコっても…」と下ネタで笑わせる直球の下品さを持っていて、とても「峯落」や「追燈」と同じ単行本に収録されているとは思えない内容となっている。

 ところが、その下品な内容の中に、シリアスなトーンで、上で取り上げた倫理的タブーを示唆する箇所がある。それは終盤、サトリくんに「あんたのそのイカれた本性、必ず表に出させてやるッ!!」と宣言された先生が言葉を返すシーンだ。

「それは…本当にいけませんね……。私の権利を侵害しています。人の心の中は何者からも自由であるべき大事な領域です。あなたには人権に疎い人間にはなってほしくない……」

「忍耐サトリくん」より
「忍耐サトリくん」より

 先生の邪悪な心の声が実在するものなのか、それともサトリくんの妄想に過ぎないのかは、劇中の描写だけでは判断できないが、ともかく、サトリくんは、先生の内心に邪悪なものがあると確信している。だが、いかにも良識を持っていそうな顔をした先生は、人の心の中を勝手に読み、代弁することは、人間の権利を踏みにじる行為であると諭す。サトリくんはその言葉にやや説得されるが、先生への疑いを捨てきれず、厳しい目つきでにらんだままだ。物語はそのまま終わってしまう。

 このシーンにおける先生の説得はリベラルな思想の、それを疑うサトリくんは左翼(=人権に疎い人間)の象徴として読むことができる。被害者の心を勝手に代弁してはならない、大切なのは他者への配慮であると説く先生の言葉に対して、サトリくんは何も言い返せないが、かといって疑いを捨てるわけでもない。

 ここでは、リベラルな良識を疑いつつも、そこに根本的な反論をすることはできないという絶妙な倫理的態度が示されている。それは「峯落」や「追燈」で示された左翼的態度への批判にもなりうる。つまり、この単行本では、いけすかないリベラルを粉砕するむき出しの左翼的態度を持ったエピソードと、その左翼的態度を同じくリベラルな視線から内省するエピソードが同時に掲載されているのだ。(モノローグがほぼ使われていないのもその態度の反映だろう)

◆精神病患者としての左翼

 最初の問いに戻ろう。「この単行本はなぜこんなに〝ゴリゴリの左翼〟なのか?」。この問いを今まで書いてきた内容で補って言い換えれば、次のようになる。この単行本の作者は、左翼的態度への疑いを持ち、他者を勝手に代弁することの倫理的タブーを描いている。なのに彼はなぜ、同じ単行本で「峯落」や「追燈」のような〝人権に疎い〟マンガを描くことができたのか。そこにある矛盾は、どのように処理されたのだろうか。

 この問いに対する答えは、唯一の書き下ろし、かつ表題作である作品「ようきなやつら」にある。これは単行本の末尾に収録されているが、「あとがき」によると「一番最初にネームにした」ものだ。また、「この話がオチにくるように単行本一冊分の話なら作れる」と担当に相談したという記述もある。これまで言及してきた作品はすべてこの短編を「オチ」として想定して描かれたものだったのだ。

「ようきなやつら」は、ここまでの短編で描かれてきた主人公たちが集結する、一種のオールスター漫画である。マサリ、「追燈」で殺されたジョンスになり代わって生きた提灯お化け、「川血」で人種差別の対象となっていた河童、「猫欠」に登場するひきこもりの化け猫らが、メガネをかけた主人公の優男・武良木(むらき)とともに、人間不信に陥って危険な状態になっている狐の妖怪を、対話によって説得しようとする。この武良木と狐の関係性は、先生とサトリくんの関係と瓜ふたつのものでもある。

 重要なのは、マサリをはじめとする仲間の妖怪たちと、武良木が説得しようとしている狐の妖怪が、どちらも精神病患者である武良木の妄想でしかないということだ。

「ようきなやつら」より

 ここまで一貫して描かれてきた、むき出しの左翼性とそれに対するリベラルな説得は、一人の人間の中で行われる妄想と、その妄想に対する客観的な目線(批評)として提示され直される。作品の中の矛盾は、武良木本人が抱える矛盾だったのだ。これは単行本全体のメタな説明にもなっている。当事者でも何でもない人間が、社会的悲劇の被害者の心を勝手に代弁するマンガを描くのは、いわば一つの妄想でしかないからだ。

 狐の妖怪(の形をした武良木の妄想)は、彼に話しかけてきた武良木に対して、人間全般への不信を言いたてる。狐は、人間から悪いイメージの存在に仕立てあげられて、周囲から迫害されてきたのだという。

「それでお前も、俺を捕まえにきたんだな。人に害をもたらすだの何だの一方的に決めつけて、また封じ込めるつもりだろう!」

「ようきなやつら」より

 武良木は精神病院に10年以上入退院を繰り返している患者であるから、これは彼自身の声なのだろう。襲いくる狐(妄想)に対し、武良木は、反撃もせず、「気持ちはわかる」「人間不信になるのもわかる」と言い続ける。

 すると狐は、武良木にこう問いかけてきた。「俺はいったいどうすれば良い?」。お前は社会から不当な扱いを受け、心が荒れている人間に、対話を説くつもりなのか。良識的な顔をしたお前は、俺に「模範的な行動をして狐のイメージ回復に尽力すればいい」とでもいうつもりなのか、と。

 武良木は答える。「そんなのクソ食らえですよ」。そんなリベラルな説得をするつもりはない。むしろ、ひとに迷惑をかけてもかまわないという。では、彼は何のために狐に話しかけてきたのか。それは、生きづらさを抱えるもの同士で話をすることで「楽になる」ためだったという。ただし、この会話自体が彼の妄想にすぎない。

 つまり、こういうことなのだろう。武良木は、自分の生きづらさを1人で抱えることに耐えきれなかった。そこで、戦中の朝鮮人やいじめを受けるハーフの少年、女性や引きこもりといった、同じく苦しんできたはずの人々の境遇を、勝手に自分と重ねあわせて妄想していた。そしていつのまにか、人々は具現化して、彼の「仲間」になっていたのだ。

 これは一見バカげた話だ。しかし、フィクションに触れたとき、武良木と似たような体験をした人も多いはずだ。生きづらさをもち、同時に──フェニニズムや反差別運動のような──自分の生きづらさを前向きな運動につなげる回路をもっていない武良木のような人間は、他者に配慮し、妥協する、リベラルで保守的な人々への憎しみをもつ。この憎しみこそが左翼だ。憎しみをもつ左翼は、もはや成功者やヒーローに共感することはできないし、運動につながる回路なしでは、生きている敗者同士で友達になることも難しい。真に心を重ねられるのは、死んでいる敗者、フィクションの中の敗者だけである。

「ようきなやつら」より

 フィクションの中の死んでいる敗者と連帯し、社会を憎み、同時にその憎しみや連帯に対する自己批評を(自分の頭の中で)くり広げる、精神病患者としての左翼。それは武良木であり、このマンガの作者であり、読者である。その体験は、はたから見れば何の意味もない異常な行動にしか見えないが、決して無意味ではないのだ。

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