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ジョセフの箱

初恋の箱だった。
美術館に立ち寄りはじめて最初に好きになった作家のお話。初めはたぶん18歳の頃だったかな。


千葉・佐倉にあるDIC川村記念美術館でちょうど今日まで開催されたジョセフ・コーネル展。
http://kawamura-museum.dic.co.jp/art/exhibition/

ご存知の方も多いかもしれないのだけれど、ジョゼフ・コーネル(1903-1972)はアメリカの美術作家で、その作品の多くはコラージュ技法で出来ている。

こちらは常設の「箱」たち。
http://kawamura-museum.dic.co.jp/collection/joseph_cornell.html


箱のなかの世界、と聞くと、なんとなく閉塞感をおぼえる人もいるかもしれない。
例えば上のURL、常設の作品である 《鳥たちの天空航法》( 1961年頃)の背面の青色の壁は擦れているし、釘が飛び出ていたり、上部に渡された金属の棒に乗った三つの球にも真新しい輝きはない。 容れ物としての「箱」自体も使い込まれたような風合い。
手製の木箱、コルク球、コーディアル・グラス、巻貝、素焼きのパイプ、そうしたひとつひとつは普段では人の目に留まりにくいものかもしれない。なのに、コーネルの手がそれらを運んだ先のちいさな宇宙は魔法がかかる。

あと少しずれていても箱の宇宙は全く違ってしまうんだろう。ものの他に余白を飾り、その空間を配置するのは彼の微細な配慮だから。
けれど、その手つきは神経質というよりは、軽やかで尖っていて、わたしはちょっと夢見過ぎかな。


決まっていたわけではないのに、してみた後で「そうあるべき」だったと思うような結果になること、みなさんもありませんか。
コーネルは、コラージュ作りの過程でものの「あるべき」姿に出会うことに喜びを感じていたんじゃないのかなって思う。シュルレアリスムが平坦に語られる時のような「偶然性」の産物としてではなくて、自身の配置による思い通りの美しさを、選んだものから引き出した時。


以下、シュルレアリスムとの関係についてキャプションの引用です。

 「……イメージとイメージが穏やかなリズムとバランスを保って自然に共存し、ロマンティックな雰囲気さえ漂います。
コーネルはシュルレアリスムの過激さや性的に強調された内容については30年代当初から抵抗感を示しており、シュルレアリストたちの集うジュリアン・レヴィ(※)画廊で自作を発表しながらも、自分はシュルレアリストの一員であったことはないと明言していました。」

そうだよね。性的な空気とか珍奇で革新的な雰囲気とか、そういう並びではくくれないもん。

今回の展示は常設以外の箱作品も多く展示されていたけれど、どれも一目で見渡せる大きさだった。箱のなかに中心的なモチーフはあっても、それらに目を奪われるというよりは、箱の空間全体に目が向くような調和のひろがりを感じさせる。
ここに、行きたい。そんな気分になる。見ている側の体の縮尺さえ変わっていきそうな浮遊感は、時間の流れもお預けになってるみたいな静かさだ。


コーネルの箱はあまり多くを明確に語りかけてこない、のかもしれない。話かけてくるとすれば、
「綺麗だよね」
をかたちで示すくらいで。
見る側は、見つめるかうなずくくらい。配置されたオブジェのひとつになっちゃったのかな、と自分自身を錯覚する人もいるかもしれない。作品が好きなら、だけど。

ところで、今回の展示でとても素敵だなと思ったのが、タマラ・トマノヴァというロシア出身のバレエダンサーとのお話。

女優や女性創作者(草間彌生やスーザン・ソンタグ)、ウェイトレスにダンサー、多くの女性に対して輝きを見出していたとされるコーネルだけれど、先ほど眺めたいくつかのコーネル評はなかなか辛辣だった。もしかしたら、男性が書いた評は同性に対してこうした話題で手厳しくなるのでしょうか…。
わたしはコーネルを、女性に対する想いが叶わないことが多かった、ではなくて、彼女たちの美しさがより引き立たされて感じられるよう、敢えて心的距離を遠ざけていたのではないか、とも思っている。
わたし、ずいぶん、肩を持ったものだわ。でも、初恋の箱だから…。

脇道に逸れたけれど、とにかく彼はタマラからかなり創作意欲をもらっていたみたいだった。
一方で、タマラからコーネルへの手紙には、彼女がコーネルの作品に注いでいたまばゆい憧れのようなものが見える。
けれども、少々無下にした状況があったのだろうか、かわいらしい謝罪の文のあとには作品を大切に思っているという内容がしたためられた手紙について展示されていた。

「あなたの作品のための素材をいくつか、近いうちにお送りするつもりです」

コーネル、良かったね。タマラは自分の写真やダンサーとしての衣装の一部をコーネルの作品のために同封することもあったという。

それで、コーネルはタマラの衣装の布を作品に使ったんだろうか…。少なくとも一部は使わず大切に保管していたんじゃないのかな。
そういうのって、すっごく素敵と思うけど。


ところで、コーネルは映画もいくつか撮っている。ダンサーの女性たちの踊る場面が映されているものがあり、表情や衣装の切り取り具合が絶妙に生き生きとして、目が洗われる。
躍動、飛翔、旋回。庭先に来る鳥たちを好んだという彼は、女性そのものというか、彼女たちの生の動き、みたいなものに魅せられていたのかも。 
例えば、タマラその人とは別に、踊る身体が作っていく動き、纏う衣装の揺れ方、それらの素材のかたさやわさ、舞台のうえでの映え方など。  


写真を載せた《踊るタマラ・トゥマノヴァのコラージュ》という作品では、衣装ときらめく光の点を連ねて、踊る軌道を表現している。  
説明なんていらないけれど、衣装ときらめきのそれぞれの特性が重なって、布の素材と軽やかさ、上品な顔つきなどが一体の性質として結び付き、互いを成立させている。


先日観てきたクリムトに描かれた女性たちも神々しくて背筋の伸びる美しさだったけれど、コーネルの作品中の女性は、彼女たちの持って生まれた魅力が最大限引き出されたみたいな現実感がある。
欲望によって剥がすんじゃなく、添えて飾る手だったんだろうな。


オブジェみたいに静かに出来て、時の流れが巻き戻されたら、ジョセフの箱が作られるのを一度後ろで見たかったのに。

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