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 5/14(14分の5)

 引っ越しすること13回、今は14軒目の家に住んでいる。
その中で唯一5軒目の家には庭があった。と言ってもかろうじて洗濯物が干せる程度のいわゆる「猫の額ほど」というやつだった。そもそも塀のような囲いがあったわけでもないから、今考えると「庭」だったのかはかなり微妙なのだけれど。  
 今は亡き父は夢追い人だった。脱サラをして手を出した商売は片手ではおさまらないほどであった。と言っても父は一攫千金を狙うギャンブル的な発想で商売を選んだことは一度もなく、手を出したものはどれも平凡なものばかり。にもかかわらず出店した場所が悪い、時期を逸していた、価格設定があまりにもおかしかったなど、原因のどれもが商売に対するセンスがないという泣けてくるものだった。しかも似たような失敗を繰り返すというところがまた輪をかけて泣けてくる。
 そんな父の何回目かの事業失敗により、夜逃げならぬ昼逃げでたどり着いたその家では4才から8才頃までの約4年ほどを過ごした。逃げてきたので、当然のことながらそこから豊かな生活が待っていた訳ではない。持ってきた荷物も今思えばお世辞にも最低限とは言えない状態だった。そんな、我が家史上1、2を争う困窮時期だったけれど、私にとっては史上1、2を争う幸せな思い出が沢山あるのだ。
 直前まで住んでいたのはベランダもない木造アパートだった。ドアを開けるとすぐ道路という立地で幼い子供が遊べる公園も近くにはなかった。まだ字も読めなかった当時の私にはお絵描きくらいしか遊ぶ手段がなく、いつも暇を持て余していた。そんな私の日常を「猫の額ほど」は激変させた。この家には窓を開けるとささやかな縁側があった。縁側を降りると物干し台があり、その周りには白い小さな花が咲いていた。今思えばいわゆる「雑草」なのだろうが私は花畑に見えた。その花畑の中でシャボン玉をするのがお気に入りだった。台所用洗剤の濃度を変えたり、ストローの先端の切り込みをかえてたりと、割れない大きなしゃぼん玉作りに当時の私は夢中になった。ちなみにアパート時代は窓からシャボンを飛ばしたら隣の洗濯物が汚れるとクレームが入ったらしくすぐさま禁止になったらしい。
 夏には手持ち花火もした。母が選んだのは狭い場所でもできて、煙の少ない線香花火だったけれど、怖がりだった幼い私にはちょうどよかった。秋には、小学校に上がった姉が月見団子として白玉を茹でてくれたこともあった。お月見なんてよくわからなかったけれど、夜に縁側でお菓子を食べる特別感には飛び上がるほど嬉しかった。冬は拾ってきた一斗缶で焼き芋を焼いた。当時のご近所さんは昭和の下町そのもので、とても面倒見が良かった。姉と二人、道路の落ち葉を集めていたら、広い庭を持つ隣家のおじさんとおばさんは落ち葉と小枝をくれた。アルミ箔に包んで焼かれるさつま芋を待ちきれず、何度も棒で突いては姉に怒られた。この猫の額ほどの空間は私にとってはそれまでできなかったこと、知らなかったことが次々と叶う夢のような場所だったのだ。
  この当時一番苦労をしていた母、そして私よりも少し状況がわかる年齢になっていた姉にとってはこれらはいわゆる「黒歴史」だという。工夫を凝らした遊びの楽しさやご近所の優しさも、その時の貧しさの方が思い出としては勝ってしまうらしい。しかし、私はこの時の毎日がわくわくに溢れていた記憶はトップ3には常にランクインしているし、きっとこの先も変わらないだろう。
 ちなみにこの昼逃げは母と姉と3人で児童館に行き、さぁ帰ろうと言って帰宅したのが全く別の家だった。その時のことはよくは覚えていないけれど、母曰く、私は普通に「ただいま」といって新しい家に入ったらしい。我ながら、適応能力の高い子供だったと感心する。

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