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  リンゴの唄

  

 父は戦中・戦後の自分が経験した「幸運」を「顔向けができない」と表現した。

 昭和20年8月15日、当時13歳だった父は玉音放送を大連の地で聞いた。 

 熊本で生まれた父は、小学校2年生の秋に大連に渡った。祖父母は熊本で小さな菓子屋を営んでいたところ、大連で日本人向けに店を出さないかという誘いに乗って海を渡ったのだという。
 当時の大連は日本とは比にならないほど近代的で、小学校にはスケートリンクがあり子供たちは冬の体育の授業が楽しくて仕方なかったのだそうだ。日本では「贅沢は敵」という張り紙が貼られ、食べ物や娯楽が厳しく制限された時でも大連ではそれほどの厳しい状況になく、日本が戦争に負けるなどあるはずがないと最後まで信じていたらしい。
 
 しかし、歴史にあるように日本は戦争に負け、状況は一変する。

 大連から船で日本に帰国するいわゆる「引き揚げ船」が就航されて日本に帰国することになるが、それも容易なことではなかった。多くの幼い子供が混乱の中で親とはぐれたり、伝染病の蔓延に伴う死別などで残留孤児になったりしたことは広く知られている。父も一時両親と離れてしまったが、運よく周囲の助けにより出航直前で両親と再会し、事なきを得たのだという。
 
 ようやく日本に帰国してみると、日本の現状に父はただただ驚くばかりだった。知らなかったとは言え、日本(熊本)に残り空襲に怯え、空腹に絶えた友人とは戦前のような友人には戻れなかった。さらには大連の学校で机を並べた友人が親とはぐれ、どうやら満州に残ったままだという噂も入ってきた。

 私が幼い頃は、残留孤児だった方々が帰国される際には新聞紙に名簿が掲載され、テレビでも実家族との再会が報道されていたように記憶している。その度に父は目を皿のようにして新聞の名前を隅から隅まで何度も見返した。テレビで親族が再開する姿には、全くの知らない人でも涙していたことは鮮明に覚えている。

 そして必ず「顔向けできないなぁ」とポツリと呟くのだ。

 晩年、父は一日の多くの時間をベットでラジオを聴きながら過ごした。日ごとに認知症の症状が進み、家族のことが分からないことが増えていった。しかし「リンゴの唄」が流れると「顔向けができない」と自らの意志で帰ることを許さなかった故郷である熊本と大連の話を繰り返し家族に聞かせた。

 父は89歳で亡くなる最後まで自らを許せなかったのであれば、確かにそれを「幸運」という言葉で表すのはそぐわないのかもしれない。一方でそれでも父は「幸運」だという人もいるだろう。これが戦争の酷いところなのかもしれない。

  2024年、少しでも世の中が平和になっていますように。

 

  


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