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インドのダンスとバレエの価値観

ダンス学者カピラ・バトスィヤヤンによると、インドのダンスでは肉体は抽象的で普遍的形態を取るという。バレエなどのダンスは目の覚めるような跳躍によって重力を克服するが、「バラタ・ナーティヤム」ではこのようなテクニックはない「インドのダンサーは、空間よりも時間に関心をおく。ダンサーが常に目指しているのは、完璧なポーズをとって時間が止まったような印象を与えることである」と述べている。インドのダンサーは、筋肉ではなく、骨格全体に重きをおく。よって、彫刻のような性質をもつと考える。

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貴金属を散りばめた光沢のあるシルクの布でできたサリーのような衣装に身を包み、同じ布でできた脚半をつけて舞台に現れる。ウエストからプリーツの前垂れを垂らしているが、踊り手が膝を曲げたり、足をあげたりするときにそれは際立つ。特徴的なポーズはまさに寺院のレリーフに見られるものそのものである。足には輪郭を取るように赤い線が描かれており、両足の足首には鈴のついた輪をつけ、髪、耳、首、鼻、手首に煌びやかな宝石をつけている。ダンサーの外見は、たおやかで女性的であるが、(もちろん男性も踊る)踊りは激しい肉体運動である。「バラタ・ナーティヤム」は、お互いを補う二つの動き、巧みな技とリズムの即興性で見せる抽象的なダンスである。

ここではあえて男性の踊りもあげて見た。↓

ダンサーはドラマー、2人の楽器演奏者と歌手従えるのが正式なもののようだ、そして楽器だけでなく詩もとても重要な意味をもつ。その解釈の仕方も技術の一つであるし、ドラマーとセッションするかのごとく自己主張をしていく。熟練した観客は目を閉じていても楽しめる。

表現的なダンスでは、特に詩が重視される。原則としてインド文学からとった寓話的な者で、官能的な言葉も含まれている。神の化身でありながら、人間として恋をしたクリシュナの話も有名で、「クリシュナ、すぐに来て、顔を見せて、クリシュナ、足の鈴を見せて、青い耳飾りを見せて。神よ一緒に踊りましょう」と始まる、女性の想いを綴った詩。

これが15回繰り返される同じ詩を、全て別の表現で演じた、バラサラスワチ(1984年没)も「バラタ・ナーティヤム」復興に大きく貢献した人物の一人である。

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ヒンドゥー教の宗教詩においては、神への思慕は、男に会いたいという女の気持ちとして表現されるのが伝統である。

バツヤヤン博士はこう述べている。「インドでは、霊と性は肉体と連なっているのです。我々の文化は生命を否定しないのです。すでに紀元前1000年頃にダンスの神様の救済にも、誘惑が使われていたという文書も存在します。無駄に厳しい苦行に打ち込む修行者の気を散らすため、神々は天の妖精アプサラスを送り込みました。もちろん最終的な目的は、宇宙の秩序を回復することで、情欲もその手段の一つなのです。宇宙の秩序のためには誘惑も有効なのです」

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「バラタ・ナーティヤム」の訓練はしばしば「バレエ」と比較される。訓練は6、7歳から始めれ、バレエと同様に基本的なステップ、ポジション、動きを覚えるところから始まる。基本の組み合わせで、複雑な動きの連続も可能になる。両方とも高度な集中力と身体訓練が必要であることは間違いない。

決定的な違いがあるというのなら、それは身体観の違いだろう。

有名な踊り手、マラビカ・サルカイは言う。

「バレエとは違うのです。なんと言いますか・・・。私たちは身体をいじめたりしません。バレリーナはステージで限界に挑みます。確かに美しいのですが、痛みと危険が伴います。私たちはそんな事はしません。別のやり方でやるんです。テクニックより心を大事にするのです。インドのダンサーは40代をすぎてからも続けることができますから、修練する時間もたっぷりとあります。私は詩を読むときいつも、なにか踊りにできるものはないかと探しています。時にイメージが閃くことがあります。動きやシンボルが見えることもあります。良いと感じる詩があれば、学者のところへ聞きに行きます。音楽と詩を聞いてダンスを組み立てるのです。」

ダンスは鏡です。とも言う彼女。

花が咲いたり、人々が語り合ったり、立ったり座ったりするようなことと一緒で、人間の動きはなんでもダンスに取り入れられる。私は自然と人間の情緒も緊密に関係していると感じていて、踊り手としてこの感性を観客のみなさんに共有してくれたらいいなと思っています。

この対照的な言葉に感慨深いものを感じるのは私だけではないであろう。

人間性が滲み出る、西洋とインドのダンスの違いを感じてもらいたい。

本日もありがとうございます。


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