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絵画における展望について

 僕はハイキングと絵画鑑賞を趣味としている。また僕は、人文地理学に日頃から強い関心を持っている(決してその道に明るいとは言えないが……)。そして先日、僕はこれらの趣味が共通の欲望によって生じたものであることに気付いた。僕は「展望」を求める強い衝動に突き動かされている。だからこそ僕は、「展望」を与えてくれるものとしてハイキングや絵画や地理学に魅了されたのだ。
 日頃、僕たちの視界はさまざまな障害物によって遮られている。そのせいで僕たちは自らの生活世界を一挙に捉えることが出来ずにいる。しかし山頂やビルの屋上などの高所に立った時、僕たちは今まで内側からの視線(虫の眼)でしか見ていなかった生活世界を外側からの視線(鳥の眼)で見ることが出来るようになる。そうやって新たな視野を獲得した時、僕たちは知的な、あるいは美的な快感を覚える。
 このような快感に魅了された人間が、高所への執着から徐々に地図への執着へと移行していくのは何も不思議な話ではない。現実の高所によって得られる視界には限度がある。いくら高く登っても地平線が消滅することはなく、またあまりにも高く登りすぎると今度はかえって地上を把握することが困難になる。一方、地図や衛星写真を使えばマクロな視野を持つこともミクロな視野を持つことも等しく簡単に行える。かくして僕は、身体の移動を伴わずに現実の高所よりも開かれた展望を獲得するようになっていった。
 しかし今度は別の問題が生じる。生活世界を内側からの目線(虫の眼)で見ていた頃、僕は生活世界に住む他者の息づかいをリアルに感じ取ることが出来ていた。しかし生活世界を外側からの目線(鳥の眼)で見るようになった結果、僕には他者の息づかいを感じることが難しくなってしまったのだ。高所や地図による展望は河川や高層建築などといったハードな事象を捉えやすくしたが、文化や集団心理といったソフトな事象はかえって前以上に捉えがたいものとなってしまった。
 鳥の眼だけではソフトな事象を取りこぼす。しかし、虫の眼による狭い視座へ帰っていく訳にもいかない。そのような矛盾に直面した時、僕はハードな事象とソフトな事象を――「知的に」ではなくあくまでも「美的に」だが――総覧する手段として、芸術、その中でも特に絵画を好むようになっていった。
 絵画という芸術は、展望を開くことについて異常に秀でている。このことは彫刻や工芸や建築といった他の視覚芸術と比較しても分かることだ。絵画と同じく平面的である写真によってすら、絵画ほど大胆に展望を開くことは難しい。このことを説明するために、今から読者諸氏には一枚の絵画を鑑賞してもらいたい。

パオロ・ヴェロネーゼ『カナの婚礼』、1563年

(なお、この絵をより精細に眺めたい方には下記リンク先をおすすめする。)

 あえて写真の用語を使うならば、この絵は「パンフォーカス」で描かれている。構図的には中央のイエスが際立った存在として描かれているが、筆致的にはあらゆる人間・動物・物体が皆なべてイエスと同等の緻密さを与えられている。筆づかいの丁寧さにおいて、ヴェロネーゼは左下の犬や右下の猫を中央のイエスと平等に取り扱っているのだ(ひょっとしたら犬や猫の方がイエスよりも丁寧に描かれているとすら言えるかもしれない)。
 僕たちの認識のあり方はこのようには出来ていない。仮にヴェロネーゼが描いたような風景を実際に僕たちが目にしたとしても、僕たちにはイエスと犬を一挙に総覧することなど出来ないのだ。僕たちがイエスを見る時そこに犬はおらず、僕たちが犬を見る時そこにイエスはいない。僕たちが一方にピントを合わせる時、他方はどうしてもぼやけてしまうのである。
 写真という芸術はそのような僕たちの主観を表現することに秀でている。主体と客体を対置した時、写真という芸術は「主体がいかに認識しているか」を描写することに長けているのだ。しかしそのような描写は客体の現実を写し取っていない。僕たちがイエスを見ていようと犬を見ていようと、イエスや犬がこれまでと同様のあり方で存在していることに変わりはないのだ。そして絵画という芸術には、「主体がいかに認識しているか」から離れたところで「客体がいかに存在しているか」を描く能力がある。多くの人は正反対に考えているようだが、実のところ絵画という芸術は写真よりも「客観的」なのである。
 写真という芸術が「主体がいかに認識しているか」を描くことに秀でているのに対し、絵画という芸術は「客体がいかに存在しているか」を描くことに秀でている。しかしそのためには、ほんらい高次元である客体のあり方をより低次元なものへと縮減しなければならない。そしてその縮減によって絵画にはしばしば不自然な歪曲が生じる。
 再度、パオロ・ヴェロネーゼの『カナの婚礼』を見ていただきたい。

本来これほど綺麗に一望することなど出来ないはずの雑多な事物が、重なり合うことなく同一平面上に配置されている。一見無秩序に感じられる一人一人の挙動も、よく見ると背後の人物を遮らないよう緻密に計算されている。そうした計算は作者の技量の高さを証明するものだが、いっぽうで画中の空間に不自然さを与えているものでもある。中央のイエスや左端の新婦などを除く作中人物のほとんどが正面に目を向けていないにもかかわらず、人々の挙動はどれもこれも「第四の壁」からの視線を想定した演技のように感じられてしまうのだ。
 マニエリスム(エル・グレコなどに代表される西洋美術の一様式。『カナの婚礼』の作者であるヴェロネーゼもそこに含まれる)の特徴とされるこうした不自然さを、しかし僕は絵画の絵画的な魅力として愛好している。マニエリスムの絵画に見られる不自然な歪曲は、メルカトル図法の世界地図に見られる歪曲と同様「客体がいかに存在しているか」を示す際に必然的に生じざるを得ないものなのだ。そういった不自然な歪曲を避けて絵画を描くことは可能である。しかし、そのような絵画に「展望」を開くことは出来ない。

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