僕は彼にあなたを愛していると伝える。僕はあなたに彼を愛していると伝える。

第1章 僕が僕に彼を愛させている

 僕は彼を愛している。そしてこの文章を通じて、僕は彼に「あなたを愛している」と伝えたいと願っている。しかし、それではなぜ今この文章を読んでいるのは彼ではなくあなたなのだろうか。彼に「あなたを愛している」と伝えるためには、僕はまずあなたに「彼を愛している」と伝えなければならないのだ。だからこそ僕は性懲りもなくこのような駄文を書き始めてしまったのである。
 僕は彼を愛している。さて、僕が抱いている彼への愛は僕の自由意志に基づくものなのだろうか。この問いに対し僕は「そうである」とも「そうでない」とも言えない。自由意志によらない愛は愛ではないが、自由意志による愛もまた愛とは呼べないからだ。
 僕はこの世界に存在する任意の人物について「その人物を愛する権利」を有している。ここで言う愛が内心の問題である以上、相手が既婚者であろうと未成年であろうと僕の持つ「その人物を愛する権利」が否定されることはない。しかし、今まさに起こっている「僕が彼を愛している」という事実をそのような権利の行使として理解してはいけない。僕は横一列に並んだ全人類の中から自由意志のもとに彼を選択した訳ではないのだ。そのような形で僕が彼を選んだのだとしたら、僕はいつでも自由意志のもとに別の人を選び直すことが出来てしまうだろう。そして彼と僕の間に特別な契約がなされていない以上、実際に僕は別の人を選び直す権利を有しているのだ。しかしそのような権利のみを眺めていても「愛する」という行為の内的構造は見えてこない。傍から見て僕の愛する相手が「任意の誰か」であったとしても、僕から見て僕の愛する相手は「特定の誰か」でなくてはならないのだ。そして「任意の誰かを選ぶ」という行為は(選択肢が複数であるがゆえに)自由意志の結果として理解できるが、「特定の誰かを選ぶ」という行為は(選択肢が単数であるがゆえに)自由意志の結果として理解できない。傍から見て僕は「80億人から1人を選んだ」ように見えるだろうが、僕から見て僕は「1人から1人を選んだ」のだ。そう捉えないかぎり「愛する」という行為は成立しない。
 さまざまな嗜好(「男性が好き/女性が好き」、「年上が好き/年下が好き」、「太った人が好き/痩せた人が好き」等)によって分母を80億より少なくしていったとしても事態は変わらない。仮にそういった集合の共通部分にたった1人の人間しか存在しなかったとしても、そのような条件を満たす人間が異なる地域や時代に現れうる以上その人間を「特定の誰か」として愛するためには「信仰の飛躍」が必要なのだ。(またこの問題はポリアモリー的な生活様式を採用したところで解決しない。「任意の数人」と「特定の数人」の間のギャップは、「任意の1人」と「特定の1人」の間のギャップと同等に深いのだ。)そもそも多くの人間は「○○という集合に属する特定の誰か」を愛することによってはじめて「○○という集合に属する任意の誰か」を愛するようになるのではないか。スティーブやマイケルを愛する前から「男性一般」を愛していた人物、あるいはサラやメアリーを愛する前から「女性一般」を愛していた人物、そのような人物が典型的だとは僕には思えない。……読者の中にそのような人物がいたら申し訳ない。
 このように考えていくと、「たとえ僕が彼を愛していたとしても、僕に彼を愛させているのが僕自身であるとは限らない」ということになる。多くのキリスト教徒にとって神への信仰が自らの自由意志によるものではないように(彼らは自分が神を選んだのではなく神が自分を選んだのだと信じている)、僕にとっても彼への愛は自らの自由意志によるものではないのだ。自由意志によって「任意の誰か」と「特定の誰か」の間のギャップを超えることは出来ない。
 それでは、誰が僕に彼を愛させているのだろうか。

第2章 彼が僕に彼を愛させている

 恋に落ちる。恋は盲目。恋の病。こうした数々の慣用句からは、「愛する」という行為は当人の自由意志とは無関係に起こる、という思想が読み取れる。(なお僕は今回の記事において「恋」と「愛」を区別しない。出来るかぎり翻訳可能な問題のみを扱いたいからだ。)しかしそのような解釈は、「愛するという行為は当人の自由意志の結果である」という解釈と同等に間違っている。
 愛の主体は愛の対象に向けて何かを贈与しようとする。その贈与が受け取られたとき愛の主体は喜び、受け取られなかったとき愛の主体は悲しむ。故に多くの場合、愛の対象は(贈与について「受け取る権利」と「受け取らない権利」の両方を有しているにもかかわらず)贈与を受け取らない時に「ごめんなさい」という言葉を口にするのだ。このようなやりとりは現実世界においても架空世界においてもよく見られるため、多くの者はこの会話をごく自然なものだと見做している。しかし、この主体が「当人の自由意志とは無関係に」対象を愛していると仮定した瞬間、上記の会話は途端にグロテスクなものと化すだろう。主体による贈与は当人の意志とは無関係な「恋の病」の発作と見做され、それを受け取った対象は周囲から火事場泥棒として糾弾される。今まで我々は贈与を受け取らない時に「ごめんなさい」と言ってきたが、これからは受け取る時にこそ「ごめんなさい」と言わなければならなくなるのだ。このような捉え方は我々の素朴な恋愛理解に反している。前述したとおり、「僕が彼を愛している」という事態は僕の自由意志に基づくものでもないが基づかないものでもないのである。「恋に落ちる」や「恋の病」のような慣用句は、こうした矛盾の構造を隠蔽している。
 このような隠蔽の問題は「愛させている者」と「愛されている者」を同一視したとき最も顕著となる。曰く、僕は彼を愛している。しかしこの愛するという行為は僕の自由意志に基づくものではない。彼は僕を誘惑することによって僕を「恋の病」へと陥れ、僕が苦しんでいるさまを見て喜んでいるのだ、云々。所謂ストーカーの論理だ。たしかに世の中には他人を誘惑することによって彼らからの贈与を意図的に受け取っている者も少なからず存在する。しかし、少なくとも「僕が彼を愛している」ということに関してその責任を彼に押しつけることは不適切だろう。僕が彼に与えられるものは彼が欲しくないものばかりだし、彼が欲しいものもまた僕が彼に与えられないものばかりだ。彼が僕を意図的に誘惑したと考えることは出来ない。それよりも僕は「任意の誰かを随意的に愛する」ことと「特定の誰かを不随意的に愛する」ことの間のギャップにとどまっていたい。そして僕はそのギャップを埋めるものとして、他ならぬあなたを必要とするのである。

第3章 あなたが僕に彼を愛させている

 彼に「あなたを愛している」と伝えるために、僕はあなたを必要としている。僕はあなたを二重の意味で必要としている。まず、あなたは「僕が彼を愛している」という事態の責任を僕に求めなくてはならない。しかし一方で僕はその事態の責任をあなたに求めなくてはならないのである。僕とあなたが相互に責任を押し付け合うことによってしか、僕は彼に「あなたを愛している」と伝えることが出来ないのだ。

あなたが僕に責任を押し付けなければならない理由

 第1章にて僕は以下のような表現を用いた。

傍から見て僕の愛する相手が「任意の誰か」であったとしても、僕から見て僕の愛する相手は「特定の誰か」でなくてはならないのだ。(中略)傍から見て僕は「80億人から1人を選んだ」ように見えるだろうが、僕から見て僕は「1人から1人を選んだ」のだ。

 さて、ここで僕が僕自身と対比させている「傍」とは何者なのだろうか。少なくともこの文章において、「僕が彼を愛している」という事態を「傍」から見ているのは他ならぬあなたである。いくら僕にとって恋愛対象としての彼が交換不可能だったとしても、あなたにとって彼は交換可能なのだ。それゆえにあなたは僕のことを「交換可能な任意の人物から自由意志によって特定の人物を選んだ」と見做す。そしてその視座においてのみ、僕という人間の自由意志は担保される。
 僕からの視座においても、あるいはおそらく彼からの視座においても、僕の愛に自由意志を見出すことは出来ない。彼に対して「僕はあなたを愛している」と伝える時、僕は往々にして自分の愛が不随意的であることを強調する。第1章で述べたとおり、随意的な愛は愛と言い難いからだ。しかしそう強調したところで彼に「僕はあなたを愛している」と伝えることは出来ない。第2章で述べたとおり、不随意的な愛もまた愛とは言い難いからだ。
 随意と不随意の二重構造を正確に表現するためには、僕は彼に「あなたを愛している」と告げるのではなくあなたに「彼を愛している」と告げなければならない。僕と彼の間にあなたの視座が挟まることによって、はじめて僕は彼への愛を自由意志に基づくと同時に基づかないものとして表現することが出来るのである。

僕があなたに責任を押し付けなければならない理由

 あなたは「僕が彼を愛している」という事態の責任を僕に求めたが、反対に僕は「僕が彼を愛している」という事態の責任をあなたに求めるだろう。僕から見て事態の責任は明らかに僕にはないが、第2章で述べたとおりその責任を彼に押しつけることも適切ではない。だからこそ僕は「僕が彼を愛している」という事態の責任をあなたに見出さざるを得ないのだ。しかし、どうやって僕は事態の責任をあなたに押しつければよいのだろうか。
 このような責任転嫁にはさまざまな手法があるが、そのうち特に洗練された手法を2つ紹介しよう。一方はきわめて古典的な手法であり、他方はきわめて現代的な手法である。古典的手法とは「あなたを神的存在と見做す」というものである。一方、現代的手法とは「あなたをシステムと見做す」というものである。
 古典的手法において僕はあなたを神や宿命と見做す。たしかに僕は自由意志に基づいて彼を愛するに至ったが、自由意志が根本の原因であるとは言えない。そもそも僕が自由意志を持った存在として生まれる以前から、僕という人間は彼を愛するよう運命づけられていたのだ。あなたに関するこのような解釈は、この文章があなたへの語りかけとして書かれていることと何ら矛盾しない。普段から僕は自分の読者の一人として神を想定しているのだ。僕にとって神とは「こちらから向こうを見ることは出来ないが向こうはこちらを見ている存在」である。おそらくそのようなあなたは今この瞬間にもこの文章を読んでいるのだろう。ただしこの手法は今や黴臭いものと見做されている。僕自身、前世における僕と彼の結びつきを無垢に信じられるほど幸福な感性の持ち主ではない。
 一方、現代的手法において僕はあなたを僕や彼と何ら違わぬ人間として捉える。より正確に言うと、僕はあなたを特定の個人としてではなく、集団からなるシステムとして捉えるのだ。あなたは、否、あなた方は、同調圧力を以て僕に「誰かを愛せ」と命じてくる。誰かを愛する能力を持たない者は人でなしであり、成熟した人間はみな誰かを深く愛している……そのようなイデオロギーが僕を愛へと突き動かしているという認識はそれほど突飛なものでもないだろう。そう捉えると僕はあなた方に対して「僕には人を愛する能力がある」ということを証明するためにこの駄文を書いたということになる。ただしこの解釈にも問題はある。あなた方が僕に「誰かを愛せ」と命じる時、その「誰か」は任意の誰かであって特定の誰かではないのだ。あなた方の発する「誰かを愛せ」という命令は「僕が任意の誰かを愛している」という事態の原因にはなり得るが、「僕が他ならぬ彼を愛している」という事態の原因にはなり得ない。そして「任意の誰か」ではなく「特定の誰か」を愛さないかぎりその愛は愛と呼ばれない以上、「誰かを愛せ」というあなた方の命令は常に破綻するのである。
 さて。あなたが神的存在であれシステムであれ、僕があなたを必要としていることに変わりはない。この文章において僕はたびたび「あなたを必要としている」と述べてきたが、ひょっとしたら僕は「彼を愛している」以前に「あなたを必要としている」のかもしれない。彼から存在を否定されても僕はおそらく生きていけるが、あなたから存在を否定されたら僕は生きていけないだろう。少なくともこの文章は彼ではなくあなたに向けて書かれたものであり、故にこの文章の価値を決するのは彼ではなくあなたである。そうでなければ僕は彼を「あなた」と呼びあなたを「彼」と呼んだだろう。そして僕は文筆を自らの人生の意義と見做している。究極において僕の人生が有意義か無意義かを決するのは、彼ではなくあなたなのだ。僕はあなたに依存している。僕が彼に依存しているようなそぶりを見せるのは、「本当に僕が依存しているのは彼ではなくあなたである」という不快な事実から目を逸らすためなのかもしれない。
 風向きが怪しくなってきた。早く彼に会いたい。

追記:記念日について

 現代の恋人たちの中には病的なまでに記念日に固執する者が少なくない。お互いの誕生日、交際記念日、結婚記念日、バレンタインデー、クリスマス……このような日付に彼ら彼女らがこだわりを見せるのは、「記念日」なる概念が持つ構造と恋愛そのものの構造の間に相似関係があるからではないか、と僕は考えている。理念のレベルにおいて、あらゆる任意の日付はマリリン・モンローの誕生日となることが出来る。しかし現実のレベルにおいて、マリリン・モンローの誕生日は6月1日という特定の日付以外ではあり得ない。「記念日」なる概念は、交換可能であるはずの「任意の日付」を「特定の日付」と見做すことによって成立するのだ。そしてこの構造は、本文にて述べた「任意の誰かを愛する」ことと「特定の誰かを愛する」ことの二重構造によく似ている。
 2月14日も12月25日も366日という分母の内の交換可能な1日に過ぎない。しかしそれを言うなら僕も彼も80億人という分母の内の交換可能な1人に過ぎない。「何の変哲もない日付を特別な日付と見なすことが出来ない者には、何の変哲もない人物を特別な人物と見なすことも出来ない」。記念日に病的な情熱を向ける恋人たちは、無意識にそのような思想を有しているのではないだろうか。
 なお、僕が「彼を愛している」という事態の責任をあなたに押し付けざるを得なかったように、彼ら彼女らもまた記念日が記念日である理由をあなたに押し付けている。少なくとも僕には自分の誕生日が3月30日である責任を引き受けることなど出来ない。誕生日に限らず、交際記念日であれ結婚記念日であれバレンタインデーであれクリスマスであれ、恋人たちはその日付を特別なものと見做したのが自分や相手であるとは思っていない。だからこそ彼ら彼女らは他ならぬあなたのためにそういった記念日を祝っているのだ。僕がこの文章を通して「僕が彼を愛している」ということをあなたに伝えようとしたように、彼ら彼女らもまた記念日を通して「自分が相手を愛している」ということをあなたに伝えようとしているのである。

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