to be or not to be

第一節

 僕は中学卒業以来、一過性の非打算的な熱情に浮かされてはしばらくして元通りの打算的な生活に舞い戻る、という反復運動を延々と繰り返している。ここで言うところの「非打算的な熱情」はしばしば恋愛や宗教にも向かったが、多くの場合は政治をその対象としていた。僕は幾度もなく左翼や右翼の急進思想に惹かれ、それらに基づいて世界に革命をもたらしたいと願ったのだ。熱情に駆られるたびに僕は非打算的な生活(たとえば革命家としての生活)を続けようと心に誓い、もし未来の自分がそのような生活を続けないのであれば僕は未来の自分を卑怯者と呼んで差し支えない、とすらしばしば口にした。しかし数ヶ月(早い時は数週間)が過ぎると僕は馴染み深い打算的な生活へすごすごと帰っていった。今の僕の背中には過去の自分からの罵声が矢のように突き刺さっている。結局のところ僕は根っからの非打算的な人間ではなかったのだ。そして、この反復運動は同時に僕が「根っからの打算的な人間」にもなれないことを意味していた。
 非打算的な熱情と打算的な生活は即座に矛盾するものではない。特に非打算的な熱情が政治へ向かった場合、その熱情を実現するための打算は必要不可欠である。私一個人が全財産を放棄すること、あるいは私一個人が政治家を暗殺すること、これらが即座に世界の貧困を解決することなどあり得ない。革命を成功させるには「革命のために生きる人間」の生命を最も貴重な資源として扱わなければならないのだ。そしてそれゆえに、「革命のために生きる人間」は「自己のために生きる人間」と同等かそれ以上の打算を身につけなければならないのである。
 よって僕の根本の問題は「完全に非打算的ではいられない」ことでも「完全に打算的ではいられない」ことでもなく、己の打算性と非打算性を適切に止揚することが出来なかったという点にある。おそらく英雄的な生き方は蛮勇と怯懦の中間にある。そして僕という人間は、蛮勇の道へ傾いたり怯懦の道へ傾いたりするばかりで一向に英雄の道を進むことが出来なかったのだ。
 前述したとおり、僕という人間は絶えず蛮勇と怯懦のあいだを揺れ動いている。ちなみに現在は蛮勇から怯懦へと向かっていく時期に当たる。先月の僕は今よりもずっと蛮勇に接近していた。その頃の僕はネットやリアルで政治的な意思表明を行うばかりか性懲りもなくとある政治結社に接近、連絡を取り合うなどしていたのだ。しかしそれから急速に心が怯懦へと向かってしまったため今ではその政治結社の方からの連絡を無視し続けている。良くないことだとは分かっているが、彼らと話していると苦しくなってしまうのだから仕方あるまい。
 この文章を書いている途中、ちょうどその結社の方から電話がかかってきた。自分自身の良心からの着信のようで少々気味が悪い。

第二節

 結社の方から再び着信があったので先ほどまで通話をしていた。「実際に戦争を止めるためにはどのような運動が必要なのか議論しましょう」と言われたので、「今の僕は反戦よりも鎮魂に、現実において戦争を止めることよりも理念において戦争の悲惨を贖うことに興味を持っています」と答えた。相手は呆れていたようだ。無論僕も鎮魂なるものが欺瞞でしかないことは分かっている。反戦を鎮魂に書き換える者はいずれ鎮魂を顕彰に書き換える。「彼らは祖国を守ったのだ、彼らの死は無駄ではなかったのだ」。くそ食らえ。しかし、それでも今の僕ははっきりとした正義ではなく花束に飾られた欺瞞の中に生きていたいのだ。
 さて。僕が今まさに書かれつつあるこの駄文に「to be or not to be」というあまりにも尊大な題名を与えたのは、自分が陥っている反復運動をハムレットの苦悩に見立てたかったからに他ならない。しかし、先ほどの通話を思い返すに今の僕はハムレットよりもむしろクローディアスに――先王暗殺の大罪を悔やみ、救いを求め神に祈っていた時のクローディアスに似ているのではないか? ハムレット役は僕よりもむしろ先ほどまでの電話の相手にこそ相応しいだろう。
 しかしクローディアスの側に立ってこそ見えてくることもある。僕は「生か死か」というハムレットの問いに自らの蛮勇と怯懦を対比させたが、そのそれぞれは相互に貫入しているかもしれないのだ。(「生か死か」は誤訳だと指摘してくださる親切な読者には申し訳ないが、今回僕はあなた方の指摘を頑として無視する。そもそも今僕はハムレットの話をしているのではなくハムレットをダシに自分の話をしているのだ。くそったれが。)
 生きていくためには我々は蛮勇ではなく怯懦を選ばなければならない。しかしそのような生は真の生とは見なされない。怯懦による生は「死んだ生」であり本質的には死であるのに対し、蛮勇による死こそ「生きた死」であり本質的には生なのだ。これは単なる甘ったれたヒロイズムではない。怯懦によって打算的に行動することが結果として敗北による死を招き、蛮勇によって非打算的に行動することが結果として勝利による生を招く、という逆説が現実世界にはしばしば見出されるのだ。ヘーゲルにおける主人と奴隷の弁証法。ニクソン外交における狂人理論。「己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ、我がために己が生命をうしなふ者は、之を得べし」というイエスの言葉は、世界に神が存在しなくとも依然として真理である。
 さて、この短い文章に僕はハムレットとヘーゲルとニクソンとイエスを登場させた。読者の中には僕の無節操な引用癖に辟易している者も少なくないだろう。彼らにとってこの駄文は、私小説的な青臭さと衒学的な黴臭さのキメラであるに違いない。そしてその評価は妥当である。安物の芳香剤がトイレの空気を悪化させるように、この駄文においては青臭さと黴臭さが互いを打ち消そうとしてさらなる悪臭を生み出している。しかしこれだけははっきり弁解しておきたい、僕は何も自分の知識をひけらかそうとしている訳ではないのだ。僕は他ならぬ自分自身について書く時ですらハムレットやヘーゲルやニクソンやイエスを迂回せざるを得ないのだ。僕の文章を読んでその衒学を指摘する者は人の発話を聞いてその吃音を指摘する者に等しい。彼らはたしかに正しいがひどく礼節を欠いている。(ああ、また僕は不適切な修辞を用いてしまった。読者の中には上の文を読んで「自分の文章の悪癖を吃音に喩えるのはそれこそ吃音当事者への礼節を欠いているのでは?」と感じた者もいるだろう。あなたは正しい。たしかに僕は吃音当事者ではない。しかし、あなたの言う「文章の悪癖」が僕の「疾病」である、という表現が単なる比喩でない可能性はどこにあるのだ? 僕だって自分自身のことくらいもっと簡潔に言い表したいよ、くそったれが。畜生、侮蔑語だけは流暢に書ける。)
 閑話休題。僕が先ほど述べた「生きた死」と「死んだ生」は、それぞれヘーゲル弁証法における主人と奴隷に対応している。ヘーゲルは、原初の闘争において自己を否定する(命懸けで戦う)ことに成功した者が主人となり、自己を否定する(命懸けで戦う)ことに失敗した者が奴隷となる、と考えていたのだ。このように考えると、僕が非打算的であると考えていた「革命家としての生活」は成功しさえすれば主人になれるという点においてすこぶる打算的であったのではないか、と思えてくる。否、むしろ革命家は当初から自分たちが打算的であることを認めていた。彼らを勝手に利他的な殉教者と見なし崇拝していたのは僕の方だったのである。そしてその崇拝は今でも続いている。先ほどの電話の相手をハムレットに見立てていたことからも分かるだろう。
 非打算的な生き方と打算的な生き方。どちらが善でどちらが悪か、どちらが正でどちらが誤か、そういったことは僕には分からない。ただ僕は非打算的な生き方を尊く、打算的な生き方を卑しく感じる。だからこそ僕は政治において穏健派よりも急進派に共感してきたのだ。今よりも政治活動に熱情を剥けていた頃から、僕は急進派による統治が穏健派による統治よりも優れていることを論証できずにいた。それでもなお僕が急進派への共感を捨てなかったのは、ただひたすらに彼らが穏健派よりも尊く見えたからである。しかし前述したとおり、一見非打算的な生き方こそ根本においては打算的なのだ。それなら、一見打算的な生き方こそ根本において非打算的である、故に尊い、と言うことも可能なのではないか? そもそも洋の東西を問わず前近代の思想家はなべて反抗を悪徳、従順を美徳と見做してきた。右にも逸れず、左にも逸れず、いかなる思想信条も持たず、何が起ころうとただひたすら時の権力に隷従する。そういった生き方に「徳」を見出すことの何が問題なのか、今の僕は分からなくなってきている。そしてのちに詳述するが、今の僕が反戦よりも鎮魂に惹かれている理由もまたそのあたりにある。

第三節

 現代世界の支配体制は、その支配体制を否定する人々によって存続している。資本主義……広告代理店は左翼活動家よりもずっと巧妙に「今の生活への不満」を大衆に浸透させている。今の生活に不満を持つ消費者は、今の生活に不満を持たない消費者よりも多くの商品を購入するからだ。皆が現状の生活に満足した瞬間、彼らの安住していた「現状の生活」は恐慌によって崩壊する。帝国主義……第二次大戦後、アメリカは他国の利益のために多額の財政赤字を背負ってきた。アメリカが世界を支配するためにはそのような一見非打算的に思われる迂回が必要不可欠だったのだ。アメリカ帝国主義の黄金時代は、利己を掲げる孤立主義者によってではなく利他を掲げる理想主義者によって築かれた。さらにはアメリカ国内におけるアメリカ帝国主義へのどれほど苛烈な批判も、アメリカ帝国主義を強化する結果にしかならなかった。「たしかにアメリカでは反戦デモが連日起こっている。一方ベトナムでは反戦デモなど起こっていない。さて、この事実はどちらの陣営の正義を証明すると思う?」
 僕が反戦ではなく鎮魂を重視しているのは、戦後の西側において興隆した反戦という文化運動、特に反戦歌を正しく愛したいからである。冷静に考えて、歌で戦争が止まる訳ないじゃないか。反戦歌を「戦争を止めるための歌」だと捉えた時、僕は反戦歌に意義を認めることが出来なくなる。反戦歌の持つ真の意義はそこにはないのだ。戦後西側において「反戦歌」だと見做されていた一連の歌は、先進国の国民が抱えていた罪の意識を、歴史修正主義とは逆の方向から治癒したのが故に有意義なのである。歴史修正主義は虐殺を端的に否認するが、反戦歌は虐殺を詩的に糾弾することによってかえって是認する。もしもベトナム戦争が起こらなかったら、僕たちはBlowin' in The WindやScarborough FairやImagineを聴くことが出来なかったのだ。そういった数々の名曲、およびその曲中で展開されている「反戦という詩性」が生まれるためには、膨大な流血がなければならなかったのである。このことは、「反戦歌が生まれることによって初めてそれらの流血には意義が与えられる」と言い換えることが出来る。何、『平家物語』や『太平記』と同じ話だ。「祇園精舎」が反戦歌ではなく鎮魂歌であるように、戦後西側の反戦歌も実質において反戦歌ではなく鎮魂歌だったのである。そして僕はそのような反戦歌=鎮魂歌を己の美意識の基礎に置いている。
 しかし、やはり反戦から鎮魂への地滑りは鎮魂から顕彰への地滑りに至るのではないだろうか? 第二節において僕は「彼らは祖国を守ったのだ、彼らの死は無駄ではなかったのだ」といった言説を「くそ食らえ」と評した。だが、反戦歌を生み出すための大量虐殺は祖国を守るための大量虐殺に輪をかけてナンセンスに感じられる。そのような中途半端な立場に身を置くくらいならいっそのこと明確な国粋主義者に転身し靖国神社へ参拝すればよいのではないか?

第四節

 反戦歌=鎮魂歌のポエジーは帝国主義を否定するが、それ自身が力を持たないことによってかえって帝国主義を補強する。いわば否定の否定による肯定だ。一方忠君愛国のポエジーは帝国主義を直接に肯定する。さて、否定の否定は肯定になるが肯定の肯定は何になるのだろう。マイナスかけるマイナスがプラスであるとともにプラスかけるプラスもまたプラスである、と読者は考えるかもしれない。しかし現実は算術のようには動かない。「己が生命を救はんと思ふ者は、これを失」うのだ。国を滅ぼしたければナショナリズムを流布すればよく、資本主義を終わらせたければ皆が資本主義に満足すればよい。それが破滅への道だと知った上で決然と現状を肯定する、それこそが第二節の最後に僕が見つけようとしていた「徳」だったのではないか? 「とどまれ、おまえは実に美しい!」と口にした時、ファウストは悪魔メフィストフェレスに魂を奪われ息絶える。この世界を、罪悪を、残虐を、悲惨を、ただひたすらに肯定することによってこそ、我々はこの世界を、罪悪を、残虐を、悲惨を、終わらせることが出来るのではないか?
 僕は常に周囲から否定されている。政治結社の方々は議論を通じて暗に僕の日和見主義を批判する。また親愛なる読者の皆様(お前だよお前)も、未だこの原稿が完成していないにもかかわらずこの原稿への批判を常に僕の耳元で叫び続けている。(すでに薄々気付いているのだ。この駄文を批判している「読者の皆様」なるものは、まず何よりも僕の頭の中の存在だということを。)しかしその否定によって僕の思考や行動は起こっている。この文章はその良い例だ。一行前の自分の発言が気に入らないからそれを修正しようとして、かえって不快感が増していく。丁度カルピスと水の分量を合わせようとして膨大なカルピスウォーターを作ってしまうような具合だ。自分の内外からの否定がなければ、僕はおそらく一語も文章を書かなくなるだろう。
 そう、僕はそうなりたいのだ。もはや一語も書くことはなくなるか、あるいは確実に肯定しうる一語のみを念仏のように一生書き連ねて暮らすか(ひょっとしたらその一語は「とどまれ、おまえは実に美しい!」かもしれない)。そうやって僕は自分の思考と行動を止めたいのだ。そして僕は、僕が自分自身の思考と行動を止めることの中に「世界を止めること」の鍵があるのではないかと睨んでいる。僕が内外の矛盾によって突き動かされているように、世界の諸事象もまた矛盾によって駆動しているように見えるからだ。
 先ほど僕は「その一語は『とどまれ、おまえは実に美しい!』かもしれない」と言ったが、実際のその一語はもっとシンプルなのではないか。すなわち、「矛盾」の一語こそが世界を止めるためのキーワードなのかもしれない、と今の僕は思っている。現実を肯定することが矛盾によって妨げられるのであれば、矛盾それ自体を肯定してしまえばいい。電話は鳴り止まない、耳元では誰かが叫んでいる、戦争は終わらない、反戦歌は格好いい、地球は青く鰻は旨い、そういった諸事象を「矛盾への帰依」によって一挙に肯定してしまった時、世界はピタリと停止する。どうやらライプニッツやヘーゲルはその境地に達したらしい、……なぜ僕には到達できないのだろう。
 重要なことを忘れていた。ファウストはあらかじめ悪魔メフィストフェレスに対して「『とどまれ、お前は実に美しい!』と言ったとき私の魂はお前のものだ」という契約を結んでいたからこそ、実際にその言葉を口にしたとき死ぬことが出来たのだ。私がいくら矛盾を肯定するだの否定するだの言ったところで、私は肯定の側にも否定の側にも魂をベットしていない。僕はギャンブラーを気取っていたが、実のところ無一文でカジノを冷やかしていただけだったのだ。
 こうして僕は再び「命を賭ける」という問題へと帰ってきた。しかし、ここで問題となる「命を賭ける」は前述した「命懸けで戦う」とは異なる。「命を賭ける」ことは勝つためではなく負けるため、生きるためではなく死ぬため、世界を救うためではなく世界を滅ぼすために必要なのだ。しかし、僕の魂を受け取ってくれそうな悪魔は未だ僕の前に姿を現さない。否、悪魔も天使もすべて僕の前には勢揃いしているのだ。それにもかかわらず僕が世界を止めることに失敗しているのは、そもそも僕が賭け金となるべき魂を有していないからではないのか? 僕は霊が存在することを信じる。霊とはハムレットでありヘーゲルでありニクソンでありイエス(彼らは亡霊として僕に遺志の継承を求めており、この記事において僕が行なった不正確な引用に激怒している)であり、政治結社の方々であり今この文章を読んでいる(と僕が想定している)読者の皆様(と呼ばれる僕の頭の中の存在)である。要するに霊は一個の身体に複数取り憑きうるのだ。また複数の身体に同時に一個の霊が取り憑くこともある。一方、僕は自分の中に魂が存在することを信じられていない。取り憑く側としての霊はそこら中にいるが、取り憑かれる側としての魂だけはどうにも見つからないのだ。僕という主体は単一の魂の意志によってではなく複数の霊の闘争によって成り立っている。いわば僕という主体は一個の議事堂であり、悪魔や天使や家族や友人といった霊的存在(霊的存在にならずして誰が僕に影響を与えられるだろう?)はみなその議事堂の中にて僕を動かすための論争を行なっているのだ。やはりそのような者に世界を止めるための賭けを敢行することなど出来ないだろう。前述したとおりやはり僕はこのカジノにおいて無一文なのだ。「To be or not to be」という当初の問いに答えを与えるならば、僕はそもそもはじめから生きても死んでもいなかったのである。

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