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担当が生きていた、世界が色づいて見えた。

これは17年前からスタートする話で、私は当時中学1年生、12歳である。このとき私がアイドルに触れることができたのは、お小遣いで買う雑誌とテレビの中だけだった。ちなみにお小遣いは1000円。雑誌は520円と580円のものを買っていた。毎月赤字だ。

こんな私がCDなんて買えるわけもなく、「感謝=∞」というミニアルバムは買えなかった。「浪速いろは節」も買えていない。自分で買い始めたのは「関風ファイティング」あたりだと思う。初回限定版にはなんと!!!緑のミサンガ付きである!!!!(どうみても紐だった)そして、アルバムもでるしライブにも行きたいし、何かを我慢しなきゃいけなかった。DVDはどうしても買えなかった。高い。親も一緒にエイターである家庭が羨ましかった。いや、おかんとはライブ一緒に行きたくないな…まぁ、こんな極貧の中学生活で初めて行ったライブが、ワールド記念ホール。近所のおばちゃんに連れて行ってもらった。センターステージ4列目、安田章大にファンサをもらったのが忘れられない。47ツアーは神戸国際会館に行った。隣の人が横山裕のサインをとっていた。私には運がない。

今シングル一覧を見ながら記事を書いているが、リアルタイムで自分で買ったのは「急☆上☆Show !!」が最後である。アルバムは「PAZZLE」まで。高校時代はライブも2回くらいしか行けていない。ファンクラブをやめたのもそのあたり。18歳くらいかな。

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そして18歳から一人暮らし、テレビのない生活、カラオケ屋で週5〜6でバイト。関ジャニ∞、大倉忠義のことなんて忘れていた。ごめん。でもどこかのタイミングで中古でアルバムを買った。「FIGHT」「8EST」「JUKEBOX」、そこらへんで「LIFE〜目の前の向こうへ〜」を聞いた。映画のエイトレンジャーも見た。「やばい…やっぱり好きや…」となった。

毎年5月16日にわざわざ何かをするわけではないけど心の中でお祝いをしてた。そして皆さんご存知の通り、実は私の「緑色」の原点の人なので、私はいつも緑色を身につけることで精神が安定するようになってしまった。

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そんな人が、この、17年越しで考えていたことを伝えてくれたのである。正直何が起きたかわからなかった。プロデューサーとして活動してるのはちらっと調べてたけど、相変わらずテレビのない生活、雑誌も買ってないし曲もわからない、担当なんて名乗っていいのかわからない、ただ「大倉忠義」に救われ、ただただ「大倉忠義」が好きな人間が、担当の言葉に触れてしまったのである。

「色んなことがあったけど、全てが良い思い出でありいい歴史です。」「僕自身が自分の存在意義を見失ってました。」「僕が12歳で魅了されたジャニーズの世界を僕目線で楽しんでいただければ」「そして、18年目も盛り上げていくよ?」

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あなたでもそうなるなら、私が存在意義を見失うことなんてちっぽけなことだなと思ったし、これが「大倉忠義」という人間が放つ言葉なんだな、と。今まで雑誌のインタビューとかで読んだものではなく、テレビでコメントしているのではなく、TwitterというSNSで発信してくれることで、「たっちょんが今、生きている」ということが伝わってきて、これは本当に革命かと。思ったんです、私は。

いや、別にずっと存在してくれてたんですけど。私が勝手に離れてただけなんですけれど。まんまと引き戻されました。10年ぶりのファンクラブ、好きなアーティストの欄「大倉忠義」にチェックをつけ、また私の新しい生活が始まろうとしています。

(まあ、8人や7人のエイトしか知らないので受け入れられるかはわかりません。でも、大倉忠義という人間が存在するなら、一度は会いに行きたいです)

Twitterよりまじめ?なつもりです。RTでもふぁぼでもスキでもなんでもいいよ。みにきてくれてありがとね。おこづかいくれたら喜びます。じゃがりこ買います。