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【ブックレビュー】ヤングケアラー わたしの語り

はじめに

「ヤングケアラー」という言葉、そしてそれが、若者が介護を担わされている状態である、ということは何となく知っていたものの、これまでとくにそれ以上知ろうとは思っていなかった。この本を知り、当事者のナラティブに興味を惹かれて読んでみた。

これほど自分と関りが深いとは思わず…


ヤングケアラーの孤独と、子育ての孤独

この本には、7人の当事者が書いた文章がそのまま掲載されている。

当然だけれど、経験した内容ももちろん、文体やそこから感じ取れる個性が多様で、とても興味深かった。そして、全員、とても読みやすい。それは、自分の経験したことを、「なぜ」と何度も自分に問いかけ、苦しみながら答えてきた時間があったからではないかと思った。

精神障害の母親との暮らし、障害をもつ妹と「きょうだい」としての生活、ろう者の両親を持つ子どもとしての人生、祖母の介護…それぞれの経験がオンリーワンなので、ここでまとめて紹介することはしない。けれど共通していたことの一つに、自分が経験していることを人に言えない孤独との闘い、その孤独から自ら人間関係を狭め、視野が狭くなるという状況があった。

友だちに言えば場が暗くなるのではないかという心配、理解されないことの苦痛、先生などに言えば「制度を使ってどうにかならないのか」などというお門違いのアドバイス。

わたし自身、まさに「制度を使ってどうにかならないのか」などとイメージしていたので、自分の想像力のなさ…というより、想像しようという努力をしていなかったことを恥ずかしく思った。

世話が必要であるという点で共通する子育てと重ねてみてみると、たしかにケアを「どうにかする」ことは選択肢としてはあるけど、実際に自分の状況下で可能な選択肢はそれほどない、ということが分かる。

「家族の介護って、制度でどうにかならないの?」というのは、「子育てがたいへんだ」という人に対して、「保育園に預けられるよね?認可保育園に入れなくても、無認可の保育園やベビーシッターに預けられるよね?保育園が嫌いで泣いたって仕方ないでしょ。ちょっとくらい問題のある保育園でも仕方ないでしょ。夜泣きとか、保育園に行ってる以外の時間がたいへんなんだったら、一日中世話してくれる住み込みのナニーを雇ったら?経済的余裕がない?そこまでして働く覚悟がない?家族の同意が得られない?いざとなったら児童相談所に行けば保護してもらえるよ?ちゃんと制度があるから。」と言っているようなことなのかもしれない。書いていて辛くなるくらいひどい。「ケアしなくていいんじゃないか」というのは、ケアラー自身を否定することにしかなっていない。

この頃の私が本当に欲しかった会話は、「祖母をケアをすることで発生する様々な苦悩とどうやって向き合えばいいのか?」「私はもっと自分の時間を持ったり自分のことを考えたいのだが、どうしたらいいのだろう?」というものでした。これらは簡単に「答え」が出るものではありません。それでも私は、「ひとりぼっちではない」ということを確認したかったのです。
私は自分の経験を元に、ヤングケアラーには二種類の人たちが居れば心強いと思っています。ピアグループと傾聴してくれる大人です。私がケアラーだった時にピアグループと繋がることができていたら、どれだけ心強かったでしょう。とにかく孤立してしまっていました。


子育てでも、家族で抱え込んでしまうことはある、そしてそれが、孤立が心の病や虐待につながってしまうことも。必ずしも自覚していなくても、心を健康に保つためには何らかの(必ずしも、生身の人間とでなくても)ことばと心の通い合いが必要なのだと改めて感じた。

私は長女を出産した19年前、とても孤独だった。同じ母親同士でも、限られた人数のママ友とは子どもの状態が違いすぎてむしろ孤独を感じて、自分からひきこもってしまった。何とか自分も子どもも生き延びられてよかったな…と思うくらい。

私は今、「母親アップデートコミュニティ(HUC)」という団体に入っている。母親同士のつながりを通して学び合い、個としてアップデートしていくことを目指している団体で、いろいろな活動を行っているけれど、私が個人的にとくによいと思っていることの一つは、たくさんの母親、家庭を知ることができること。母親もいろいろ、子どももいろいろ、家族もいろいろ…それぞれに違う状況のなかで自分なりの道を模索しているということを感じられる。そして何かなげかければ、決して否定されずに受け止めてもらえる。私も長女を産んだときに、HUCのようなところがあれば、もっと視野を広く保てて精神的にも救われたのではないかと思う。


ヤングケアラーは、想像以上に身近


実は、


私はその長女を「ヤングケアラー」にしたことがあった



次女が幼稚園生のころ、私は経済的に自立することを決意した。幼稚園の時間のあいだにWebの勉強をして、なんとかWeb制作会社にパート勤務できることになった。

40代で実績もなく、会社勤めの経験もない人間として、入れた会社に意地でもくらいついてスキルアップするつもりだった。幸い勤務時間はかなり自由にさせてもらえたけれど、預かり保育もない長期休暇のあいだなど、完全に休むわけにはいかない。

その時、私は中学生だった長女に世話を任せて仕事にでかけた。


もちろん、保育園に転園するとか、ファミリーサポート制度を利用するなどいろいろ「制度で保障された」選択肢はあった。けれど、あまえんぼうで人見知りで幼稚園の2年目になっても朝私と別れる時に号泣する次女を、今から知らない環境に入れたり、知らない人に預けることは考えられなかった

甘いと言われれば甘いとしか言いようがない。そして、優しい長女が妹を見ていてもらえないかと聞かれて嫌と言わないことを知っていた私は、ずるい。それも分かっていながら、私は「みんなが助け合うのが家族ではないか」と自分に言い聞かせた

「ヤングケアラー」という言葉を知ってからも、私も長女も、自分たちが(短期間であれ)当事者であったことに気づいていなかった。そのことに気づいたのは、長女が大学生になった今年、ドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』の話をしていたときだった(登場人物の一人が元ヤングケアラーだった)。ふと、「そういえばあなたも子守りしてたね…」と口にして、お互いに驚いた。ヤングケアラーというのは、それくらい自然に陥ってしまう状態なのだった。

今、私の身に何かあったら。または、姉妹のどちらかに何かあったら。我が家はきっとまたヤングケアラーが生まれる。その意識を、こんどはしっかり持っておきたい。

しかしいっぽうで、ヤングであろうがなかろうが、ケアラーであるということは決してネガティブなだけの経験ではない

ケアをどこまでサービスに任せられるか、その選択肢は保障されるべき。ただ、そのうえでケアをする選択をしたのなら、その選択は尊重されるべきものだし、その経験は価値のあるものに違いない。他者に対する想像力、状況対応力、工夫する能力、忍耐力、レジリエンス…たくさんの得るものがあるはず。家族のケアが過重にならないようサポートできると同時に、担ったケアに対して正当な評価ができる社会、ケアラー自身をサポートしあえる社会でありたい。

ヤングケアラーには問題が生じやすい。けれど、それ自体は「問題」ではない誰でもなりうるひとつの状態として、みんな知っておいてほしいし、サポートしあえるようにしたい、と思った。

最後に、いちばん心に残ったケアラーさんの言葉を掲載させてもらいたい。

大学に行くことをあきらめて自暴自棄になっていた当時の自分いこう言ってあげたい。「あなたは今、精一杯になって気づいていないかもしれないけど、あなたの目の前には無数の選択肢がある。自分のために母のことを家族に任せることができる。母の鳴らすナースコールを無視することもできる。すべてを投げだしてどこか遠くへ逃げることもできる。でも、あなたは家族を放棄せず、自主的に母と向き合うという選択をしている。その選択をしている今のあなたを、未来のあなたは誇りに思っている。」

制作がコロナ禍にあたってしまったこともあり、依頼はしたが原稿を完成できなかった方もいたという。公開されなかったそれらの原稿を含め、著者の皆さんに心からの敬意を送ります。

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