自由と制約
自由ってなんだろうね?
常に真っ白なキャンバスな状態なのか、どこにでも進むことができる状態なのか、はたまたいつでも動ける状態なのか。
そういうのをたまーに、単語的な意味じゃなくて概念的に考えたりする。
何も枠組みがないまっさらな状態がストレスになる人もいたりするけど、そんな人でも常に指図ばかり受けたいわけじゃないと思うんだよな〜。
一定の範囲が決められてることで、ようやくその中でのびのび動き出すことが出来たり。
その範囲の大小が人によって違ったりするんかな〜。
きっと、人によって最適な大きさの枠があるんだろうと、勝手に思ってる。
何かをつくるひと、生み出すひとも、一番パフォーマンスを発揮できる枠の大きさがそれぞれあって、例えば「〜のイメージに合う曲をつくってください」みたいに言われる方がやりやすい人もいれば、「唐突に自分の中から生まれたものだけでつくる」っていう方が良い人もいたり。
一見後者のほうが自由度は大きそう、言い換えれば制約が少なそうに思うけど、なんのモチーフも無い状態で自分の中からのみ生み出すことでさえも、ずっと作り続けてたら「これは過去に作った曲に似てるからやめた」みたいなことにも出くわすわけで。
ということは、そこには無意識に「過去作と似たものは作らない」っていう制約が生まれてる。
ということは?作れば作るほど枠の大きさは狭くなる。となると、作品を作ることは制約を作っているようなもので。
それでも自分の中から生まれたもので何かを作りたい場合は、自分の感性をアップデートしていくしかなくなる。そう思うと、バンドとかって時期によって音楽性がどんどん変わっていったりするんだけど、妙に納得してしまう。
けど、それって自由なのかな〜?とも思う。
そもそも、まっさらな状態で自分の中から生み出すときも、他人と似ないようにはしなきゃいけない、とかもあるから、今この瞬間も制約は増え続けてるわけで。
そこで、ちょっと前提を変えてみる。
まず、誰にも公開しない、という制約を決める。
ぜんぜん違う角度の制約だけど、ここではこれも一つの枠とする。
そうなると、自分の過去作に似ようが他人の作品に似ようが、別に良くなる。理論ぐちゃぐちゃで自分しか心地よくないメロディも作り放題。
そう考えると、これはほんとに自由という単語が似合うくらい枠が大きい。一個の制約のおかげで膨大な枠を手に入れることが出来る。
すごい。
枠の範囲を0〜100で表したら、これを100としてもいい気がする。
こう決めたら、あとはその時々の状況と制約の性質で丁度いい箇所を100から降りていって探す感じになる。
制約の性質は
・外的要因を含む制約(例: 他人からの依頼、著作権、評価、売上)
・そのジャンルならではの制約(例: 音楽なら使う楽器、スケール、音質)
・自分の中でのこだわりから自分で決めた制約(例: ポップスしばり、作品非公開)
などなど、まだまだあるけど、生もうと思えばいくらでも生めるし、意志に限らず自然と決まっているものもあったり。
制約と制約の因果関係によって増減が決まったりするから、何かの制約が一つ増えることで芋づる式に複数の制約がくっついてくるケースもある。
かといって、減らせば枠が大きくなるわけでもなくて。非公開の例のように、一つ増やすことで他の制約が軒並み消え去ったりする。
おもしろいな〜。
発端は「自由」、というところから考えてるけど、結局これが個性になっている、って感じる。
自由度を決めるってことは、制約の選定をする、ってことになって、それがその人の個性や特徴になっている、と。
もはや極端に言うと、「創作 = 制約を選ぶこと」くらいな感じ。
「生みの苦しみ」というのをよく聞くけど、こう考えるといろいろと納得する。作り続けてたらそうなるよな〜って。
逆に、作る側じゃなくて楽しむ側から考えてみると、人が生み出した何かにふれた時は、それを生み出した人の枠を感じることが出来るってことになる。
似た曲ばかり作る人を幅が狭いな〜と捉えるか、枠が大きいな〜と捉えるか。
それはたぶん、聴く人が「種類」を気にする人なのか、「思想」を気にする人なのかで変わる。
つまり、聴く人にも自然と何かしらの制約があるってことになる。
自分に課している制約は、一体なんだろう?って考えると、いろんな気付きがあって面白い。意識的なもの、無意識的なもの、どっちもある。
一番楽しいって思う枠の大きさを決めることが出来たとき、わりと人生でもトップレベルで幸せだと勝手に思ってる。
あー、ここまでだらだら考えた結果、自由って結局何なんだ、と。
自分的にはなんとなく、
「制約を使って自分で枠を決めることが出来ること」
な気がした。
創作を例に書いてたけど、これなら抽象度が高いのでわりと何にでも解釈を落とせる。
楽しく生きてる人って、その場面場面でこれを決めるのが上手だなって思ってる。
自由にはもれなく責任がついてくる、とはよく言ったもので、責任すら制約の選定材料になっている。
「自由と制約」
一見反対にみえるこの2つがもはや、同義語にしか見えなくなってきた。
そんな、今日このごろ。
そして、たくさん「制約」って単語を書いたせいで制約がゲシュタルト崩壊した、そんな一日でした。
おわり。
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