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『クリード 炎の宿敵』レビュー

いっやー、面白かった!!『クリード 炎の宿敵』!!
もともとロッキーシリーズの中では4が一番好き(対比構造があまりにも分かりやすいし、ドラゴのキャラ立ちがスゴいから)だったので、本作の情報出た時は盛り上がったこと、盛り上がったこと。実際見ても、興奮した!ので!ちょっと感想をここに書き連ねます。箇条書きであっち行ったりこっち行ったりしつつ。『クリード チャンプを継ぐ男』や、「ロッキー」シリーズに関する前置きの情報は省略いたしまして。
あ、バリバリ内容に触れますので悪しからず。

○シリーズを見てきている観客に対するサービス満点

 長く歴史を重ねている作品は、最新作を見た時に「あ、昔のあのシーンがここに生かされてる!」といった面白みを入れることができるという強みがある。本作品は内容としても「ロッキー4」を踏まえているため、それをふまえている性格が強い。以下にパッと気付いた点を挙げる。

・トレーニングは4の暑いバージョン
 →アドニスは(実質的な)敗戦後、デスバレーに修行に行くが、これはロッキーがドラゴ戦に向けて雪山でトレーニングをする姿と重なる。それまで、水中トレーニングといった現代的なトレーニングを行っていたところから、メンタル面の強化(ロッキーがいう所の「お前自身が変わらないと」という点)も兼ねて、ロッキーが薪割りしたのに対してハンマーで地面をえぐる(どんなトレーニング?!)、ロッキーが雪山を上るのに対して灼熱のアスファルトの上を走るといった肉体を苛め抜くトレーニングに挑む。
 ロッキーがランニングの中で追っ手を振り切って雪山の頂上に立ち、吠えるシーンは記憶に残るが、本作ではアドニスはランニングの中で山に…上りはしないが、車で並走するロッキーを振り切らんばかりのスピード(画面上では車は後方に消える)で走る。その様子はそれまでの弱り、迷っていた自分を振り切るかのようで、ロッキーの時とは異なる「試合に向けて仕上がった」感が際立って感じられるイイシーンだった。

・と、いうか話の構造も4とほぼ同様。
 4の構造は超簡略化すると以下のようになる。
 
ドラゴに敗北(アポロ没)→特訓(雪山へ!)→ドラゴに勝利(敵地ソ連で)

 本作も超簡略化すると、

 ヴィクターに敗北(クリード失神)→特訓(デスバレーへ!)→ヴィクターに勝利(敵地ロシアで)

となり、まんま4の構造をトレースしている事がわかる。これは、4を知っている観客に対する「もうお分かりですよね?」的なサービスとも言える(実際流れがまんま過ぎて観ながら笑ってた)。
しかしながら、4と本作の大きな違いはこの構造をクリード一人に背負わせている点である。そうすることで、ロッキー、そしてアポロという人物の影も重ねられていく。このロッキー、アポロという偉大なるチャンピオンの、また偉大なる父(血縁関係の有無は在れど)の存在というのは、クリードの前に立ちはだかる大いなる壁としても機能するのではあるが。

・再戦に向かう目的が「ロッキー1」と近いものがある
 「ロッキー1」でアポロと闘うにあたって、ロッキーはその試合の意義についてこのように語っている。「俺が試合に負けようがそんなことは大したことじゃないんだ。俺は判定に持ち込みたいんだ。アポロと戦って判定まで持ち込んだやつはいない。だから俺が判定までいって、試合終了のベルが鳴った時に、まだ俺がリングに立っていたらさ、俺がただのゴロツキじゃないって証明できるんだ」つまり、自分自身の存在を誇りに思えるような、そんな自分であるということを証明するための試合なのだと語っている。
 クリードでも、再戦の意向をクリードがビアンカに「ここで闘わなかったら、自分が何者でもなくなってしまうんだ」的なことを告げるシーンがある。このセリフは本作の中で大きな意味を持つものと考える。ロッキーが闘わねば、ヤクザの用心棒を掛け持ちする地下ボクサーだったように、クリードも闘わねば「アポロの息子/ロッキーの弟子」という自分自身の持てるものを誇れない存在になってしまうのだ。

・ロッキーの妻、エイドリアンもそうだが、クリードの妻(になる)ビアンカもしっかりと芯を持った女性で強い女性である(ロッキーもクリードもブレブレな所がある)。

・試合のシーンで、同じ方で二回連続パンチを放つカットがあったと思うが、
それはロッキーのファイトを重ねてる?(かなりあいまいな記憶)

・チャンピオン選前に妻に手話でトイレの確認を取られる
 前作の試合のことを思い出させる作用と、ビアンカの耳の症状の進行も示される(そのためクリードも手話を勉強している事がわかる)シーンとなっている。

○歴史・過去とどう向き合い、越えていくかの物語

・ロッキー「過ぎたことだ」「昔の話だ」
ドラゴ「俺には、あの日は昨日のままだ」

これは、ドラゴがロッキーの経営する店に赴いた際の二人の会話なのだが、時間や過去といったものをスゴく象徴したセリフではないか、と思う。確かに時間というものは止まることがない。止まることを知らない時の中でいくつもの…と口ずさみたくもなるが。ロッキーはドラゴ戦を振り返ったときも、また他のシーンでも自分の過去の試合については「過ぎたことだ」という言い回しを多く用いる。それは、あの頃と今は違う(加齢や身体的な問題によりボクサーを引退し、エイドリアンもアポロもミッキーもポーリーも亡くなっているのだ)、ということであり、時間の「今は常に過去になっていく」という側面を強く表したものだと言えよう。
 一方、ドラゴのセリフである。敗戦によって、こうも言いたくなるほどの境遇にさらされているのであるのだが、これは「過去は常に振り返られる」という部分にフォーカスを当てたセリフではないか。時間はいくら過ぎていっても、「あの時、あんなことがあった」という事実は消えやしない。死ぬまで、過去の事実とは形はどうあれ向き合い続けなくてはならないのである。時間や過去というものの、非常に厳しい側面である。
 時は過ぎ去っていくものでありながら、そこに止まりつづけるもの。どう向き合うのかは人それぞれなのだ。
 そして、クリードは時間・過去・歴史とどう向き合っているか。言わずもがなではあるが、まず父アポロの影と向き合わなければならない。これは前作でも大いに描かれた部分であると言えよう。そして今作は、父アポロ、ロッキーとドラゴとの世代を超えた因縁に向き合わねばならなくなっている。また、娘が生まれたことにより、クリードは引き継がれる存在であるだけでなく、次世代へと引き継がせる存在にもなっている(こっちの側面は大きく描かれていないが)のだ。自身の背負うその様々な歴史の中で、クリードは一度目の試合で闘う意味を自分自身から離し(父の敵討のため…等) 、ヴィクターに敗北を喫する。勝利を収めた二度目の試合では、単にその歴史の渦に身を投げたのではなく、自己を確立(理由を他に置かず、自分自身のために闘うのだという確かな覚悟を備えた)していた。つまりは歴史と面と向き合い、打ち克ったのだと言える。
 

・タオルをドラゴが投げて終わる
 ヴィクターとの試合は、ドラゴがタオルを投げたことによるクリードのTKO勝利によって決着する。この試合の終わらせ方には非ッッ常に感動した。例えば、4と同様にクリードがKO勝利したとしてもある程度の興奮はあったと思う。また、そうした方が4のフォーマットに乗るのでサービス的と言えるかもしれない。しかし、ここではドラゴにタオルを投げさせている。これには二つの効果があったと考える。
 一つ目は、因縁を前の世代の人間が断ったということ。ロッキーがタオルを投げなかったことによって生まれたドラゴとの因縁を、クリード、ヴィクターといった息子たちの手によって断つのではなく、ドラゴがタオルを投げたことによって断ったのである。アポロ、ロッキー、ドラゴの因縁が次世代の生活に大きな影響を及ぼし、息子たちが前に出て闘ったとはいえ、前世代の因縁は、前世代が落とし前をつけなくてはならないのだ。
 二つ目は、ドラゴ親子のドラマが爆発したということ。ここまでも、厳しい生活、ひどい元妻(息子の負けそうな様子を見て、会場を後にする!)といった要素の存在によって人物像に磨きがかかっていたが、この終わらせ方をすることで、ロッキー・クリードのバディより、ドラゴ親子の方に情が少なからず移ったし、この親子のこれからが気になった観客も少なくないだろう。
 

・アバラ折れても戦わせるロッキーと、子どもの様子を見てタオル投げるドラゴ
 どんだけボディを鍛え上げても、ヴィクターに初戦同様アバラを折られるクリード(あんな剛力巨人相手じゃしょうがない)。それを見たロッキーは、アポロの時のあやまちを繰り返さぬようクリードに棄権を勧め…ない!!むしろ「お前は今、獣だ!肉を切らせて骨を断て!!」とすでにアバラ骨断たれたクリードをリングに上げ続ける。「鬼や…」と思わず呟いてしまったが、これはロッキーは自分のことを省みた愛情ゆえの行為だったのだろうか。「Go the distance」…「最後までやりつづける」という名言がロッキー1で出て来るが、これを全うしなければ、クリードが本当の意味で試合に勝つことができない(歴史に、またそれを背負う自分に打ち克つ)のだと理解していたのかもしれない。しかし…やらせるかね…ここはなんだかんだ言っても、血のつながってないからこその行為じゃないかと思ってしまうのですよ、ドラゴの行為と比較すると。
 ドラゴは、スタミナ不足かつパワーアップしたクリードから予想以上の反撃を喰らい、かつ母が試合会場から去るという三重苦を負った息子ヴィクターの姿を見て、これ以上の試合は自分の因縁を晴らせる以上に大切なものを失ってしまう…とばかりにタオルを投げるのだ。現在、自分が父として為すべきことをした(そしてそれは自身の因縁に終止符を打った)、のだとも言える。この時の表情ったら…ドルフ・ラングレンの枯れ具合…ステキやん…。

・リングの中と外
タオルが投げ込まれ、試合が決まった時、クリードはビアンカを呼び、リングに上げる。ではロッキーは?というと、リングの下にいるのだ。そして、拳をクリードにぶつけ、「これからはお前たちの時代だ」と述べる。そいや、アポロの奥さんもリング外にいるではないか。つまり、リングの上と下で世代がハッキリわかれている。リングに今、立っているものと、降りたもの。「ロッキー」の物語はここで終わるのだということではないか。もし続編があるとすれば、自作から完全なる「クリード」の物語が始まるのではないだろうか。
このシーンはラストに近いからというのもあるが、印象に強く残っている。最後、ロッキーが立っているそばには、ロッキーが座るのも含め椅子が二つ置かれているのだ。ロッキーと、ここにはいないもう一人のための椅子…アポロなのか(ボクサーの世代差)…はたまたエイドリアンなのか(新たな家族の物語)…。

・加えて、病院のシーンでよく「EXIT」の表示がロッキーと一緒に映るのが気になった。

あー、勢いで!散らかってるし、要領得ない!というわけで!

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