視覚障害者への色についての質問と、「あなたは、インドカレーの中で、どういった味が好きですか?」という問い

視覚障害の人と色の話をした。彼は、もともと弱視だったから、おぼろげに赤や黄色、青という概念はわかるということだった。
「好きな色はなんですか?」
僕は、そう聞いて、彼は「うーん、あえていうなら青かなぁ」と言ってくれた。だけれどもイマイチ会話が盛り上がらなかった。僕は、そして、帰りの電車の中で、「あ、これはいまいちなことを聞いてしまったな」と感じていた。

何がダメだったのか、しばらく言語化できなかったのだけれども、おそら<わたしたち>の中での「当たり前に大切な要素」は、人によっては大切ではないのである。
目がみえる人たちが当たり前に押しつけてくる、「色という概念はどうゆう風に捉えているの?」という質問は、普遍的な大切さではないのである。色というものが、日常の中で利用できないものであれば、その中のどれが好きか、だなんて質問にどんな意味があるのだろう。
「赤外線のどれぐらいのスペクトルがあなたは好きなの?」
と聞いたようなものなのだ、きっと。
あるいは、もっとわかりやすい説明をすると、
「あなたは、インドカレーの中で、どういった味が好きですか?」と尋ねられるようなものだと思う。
インドに生活拠点を置くもの、ルーツを置くものにとっては重要な問いかけであるかも知れないけれども、醤油文化や、発酵文化に漬け込まれてきた<わたし>にとって、その問いには意味がない。意味がない、というか、私はインドに行ったことがあるから、野菜カレーや、鶏肉カレー、豆カレーの違いは「わかる」し、スパイスの違いも「わかる」のだけれども、その問いは、私の生活にとって、あまり考える機会もなければ、考えようとも思っていないのである。
インドに生活拠点を置くもの、ルーツを置くものにとってのその質問とその応答の価値があることは理解ができる。しかし、その問いへの応答をすることそのものが、<わたし>には、無駄な行為・時間であるように思えてしまう。私たちにはもっと話すべきことがあるのに、と。

だから、私が考えるべきだったのは、彼にとって、何が重要なのか、私たちが重要だと思うことを押しつけて、何かしらの回答を得て対話が成り立っているように勘違いする行為は、<わたし>の独りよがりにすぎないのである。私は、彼に会話の主導権を渡すべきだった。彼発信からの応答をもう少し楽しむ方がよかったのだ。

世の中は、目が見える人中心に作られている。
こういうことを書くと、
「世の中の全員が目の見えない世界なんて、作れるの?無理じゃない?」
という質問が返ってくるかも知れない。
僕は、YESなのではないか、と思うのである。作れるのではないか、と。いや、作れたはずだったのではないかと。
例えば、ミミズのように、例えば、コウモリのように。
人間の社会が、ミミズのような社会であった可能性もありうるのだと僕は思うのである。
土の中で、触覚を頼りに移動したように、「人間」というものが、触覚を社会の基盤にして、成り立つような世界観がありえたのかもしれない。
そんな社会を僕は想像して、今の社会をみて、視覚中心主義の私たちの世界をみて、絶望するのである。その歴史は、多数派の正当化の歴史だ。僕はその世界で生まれて、そしてその世界の恩恵を受けて、ごはんを食べている。

ねぇ、生きるってのは、根本的に、誰かを虐げて、それに気づかないようにふるまう営みなんだよね。
私は、私の無意識の質問から、目がみえる、という事柄について、数日間考え、反省し、そして、数年間忘れてしまうのだろう。

にじいろらいと、という小さなグループを作り、小学校や中学校といった教育機関でLGBTを含むすべての人へ向けた性の多様性の講演をしています。公教育への予算の少なさから、外部講師への講師謝礼も非常に低いものとなっています。持続可能な活動のために、ご支援いただけると幸いです。