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横光利一『機械』と「人間機械論」

 かつて志賀直哉と共に「小説の神様」と呼ばれた横光利一の小説が、現在それほど読まれていないとするならば、代表作のタイトルが「機械」という、初心者には取っつきにくいことが遠因のような気がする。
 しかしそれならばそもそも「人間失格」という小説のタイトルもそうとうイタいはずなのだが、太宰治のめちゃくちゃな私生活による悪目立ちが「幸い」してしまい、その「失格度」を確かめることで自分はまだマシだと安心感を得るために未だに読まれているのである。ここでは何がどうなるのか誰にも分からないということだけを確認しておこう。

 さて、新潮文庫の2003年の改版を用いてその『機械』を論じてみようと思う。ざっくり粗筋を認めるならば、主人公は九州の造船所から上京してくる途中で、たまたま列車内で知り合った婦人の紹介でネームプレート製造所に勤めており、そこの主人と細君と同僚の軽部と、仕事が増えたことで主人の同業の友人の製作所から派遣されてきた屋敷との日々が主人公のモノローグで描写されることになる。

 本作に関して誰もが最初に抱く疑問は「ところで機械とは何を指すのか?」というものであろうが、それは最後の方になって明らかになる。

なるほどそう云われれば軽部に火を点けたのは私だと思われたって弁解の仕様もないのでこれはひょっとすると屋敷が私を殴ったのも私と軽部が共謀したからだと思ったのではなかろうかと思われ出し、いったい本当はどちらがどんな風に私を思っているのかますます私には分らなくなり出した。しかし事実がそんなに不明瞭な中で屋敷も軽部も二人ながらそれぞれ私を疑っていると云うことだけは明瞭なのだ、だがこの私ひとりにとって明瞭なこともどこまでが現実として明瞭なことなのかどこでどうして計ることができるのであろう。それにも拘らず私たちの間には一切が明瞭に分っているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを推し進めてくれているのである。(p.145)

 主人公の「意識上」においてはあらゆる可能性が存在するはずなのだが、現実においてはその中の一つしかあり得ないのであり、その可能性の可否は人間の意志によるというよりも、「機械的」に起こっているとしか思えないというのが主人公の心情なのである。その素直な心情の吐露が最後に書かれている。

私はもう私が分らなくなって来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖せんせんがじりじり私をねらっているのを感じるだけだ。誰かもう私に代って私をさばいてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。(p.149)

 これは事実上の「人間機械論」と言えるだろう。