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古井由吉『中山坂』の「点と線」

 古井由吉は1986年1月号の「海燕」に「中山坂」という短編を発表し、翌年の川端康成文学賞を受賞しているのだが、短編集の『眉雨びう』(福武書店 1986.2.15)に収録され文庫化されて以降は全集か『川端康成文学賞全作品〈Ⅱ〉』(新潮社 1999.6.20)でしか読めない。
 因みに『川端康成文学賞全作品〈Ⅱ〉』には受賞の言葉と選評も掲載されている。井上靖は理事長という立場から作品に言及しておらず、大江健三郎と吉行淳之介は肯定的で、山本健吉は否定的である。大江健三郎と吉行淳之介の選評を読んだからといって作品が理解できるわけではないので敢えて引用はしないが、吉行が「『古井由吉の短篇を一篇』というときに、『中山坂』ということになりそうな作品である。(p.368)」と指摘したようにはなっていない。

 ここでは福武書店版を使って『中山坂』を松本清張ばりに点を線でつないでみようと思う(期待はずれだったら面目ない)。

 主人公の女性(三十路間近)は国分寺に住んでおり、中央線で新宿まで行って、総武線に乗り換えて水道橋に勤める女友達に会いに行くつもりが、眠り込んでしまい乗り過ごし下総中山で降りる羽目になってしまう。時期は日本航空123便墜落事故が起きた1985年の9月の最終土曜日の正午過ぎ頃ということだから1985年9月28日である。

 駅前広場から商店街の表通りに歩いて行き、門前町の長い坂道を登って行って大門辺りで野中という老人と出会うのだが、中山競馬場に行こうとしている老人は体調が優れず、女性に肩を貸してもらって馴染みの茶店まで連れて行ってもらう。

 実は癌を患っていて、体調が回復しない老人の代わりに二万円と紙きれを渡されて女性が競馬場に向かうことになる。入場券売場と馬券売り場を間違えたものの、その後は四千円を払って「ニ・五」と数字の打たれた券を受け取り、レース終了後、再び窓口に並ぶと、三十代なかばくらいの男に話しかけられるものの、七万円を受け取り茶屋に戻ってくる。

 女性は老人に鮨をごちそうになるが、テレビを見ながら競馬のうんちくを聞く羽目になる。帰りは茶屋の主人が運転する車で老人と一緒に帰宅することになる。

 以上が『中山坂』のあらすじであるが、誰もが気になる文脈が二ヵ所あるので、まずはそこを引用してみる。

 ひと足ごとに老人の身体が重たく、眠ったようになり、しばらくして、くぐもった声でたずねた。
「よし子、お前、男と寝てきたな」
「まさか、こんな、真っ昼間から」
 頓狂な高っ調子にあがった叫びを、女は誰の声かと呆れて聞いた。昨夜ゆうべなら知りませんけど、と胸の内でつぶやいて鼻の根に憎さげな皺を寄せる顔が、面だちまで目に浮ぶ気がした。思わず脇へひねった腰に走る陰気な疼きも、他人のものと感じられた。老人は黙りこんで、返事を待つ様子もなかった。寝息みたいのをかすかに立てている。(p.198)

〈三十代なかばぐらいの男が〉耳に息が吹きかかり、「ニ・五、取ったの……ひとり」とささやきかけてきた。小母さんに何か言われるかと気おくれしていたところだったので、ついこっくりうなずいてしまったのがいけなくて、男ははっとこわばって顔をかえって遠ざけ、「冗談じゃなくて、レースが終ったら、友達をまくから……」とまた寄って来た声が潤んでいた。
 朝焼けがひどかった。男の眠りを盗んで服を着こんだあと、部屋のカーテンを細く分けてのぞくと、もう通勤の姿が道を行く時刻に、低く垂れた雲の内から見る間にも赤みがふくらんで、それにつれて、ジーパンに押しつけられた腰に、右へよじれる、重い疼きがさしてきた。(p.209)
(段落が変わると同時に時空も変化している。)

 これからいくつかの手がかりを箇条書きで洗い出し、俄かには信じられないような解釈を試みてみるつもりである。

1.「右足をほとんど引きずるようにして、この足で、あなたのところまで行きますから、拒まないで、と筋も通らないことを訴え訴えひたむきに歩いた。あれからつづけて何時間も、水道橋に勤める女友達に会いに行くつもりで電話までして乗った電車の中で居眠りしていたほかは、同じ坂を登ってきた気がする。(p.209-p.210)」と書かれている。女性は国分寺に住んでおり、電車で水道橋経由で下総中山にたどり着いたのである。下総中山には中山競馬場があり、水道橋には馬券売り場があり、国分寺ではないが、隣接する府中市には東京競馬場があり、国分寺市は坂道が多いことで有名である。

2.小説内で叫ばれる「シラギク」とはヤマノシラギクのことだと思う。牝馬のヤマノシラギクは1985年12月、7歳の時に有馬記念の出走を最後に現役を引退している。そして小説内の女性はしきりと腰を気にしている。

3.小説の最後は以下のように終わっている。老人が女性に語りかけている。
「俺としても、あんたが男に身を投げ出していると、そう思ったほうが今夜は甘い気持で眠れるからな」
 きわどいような話なのに、車を運転する店の主人の背がすこしも動かなかった。(p.216)

 以上の「証拠」から老人と調教師を、女性と牝馬を、三十代なかばぐらいの男と牡馬を、店の主人と騎手をダブらせているように見えるのである。

 「調査」しながら小説を読むということは個人的には邪道だと思っているのだが、時事ネタを含むおよそ40年前の小説を読む場合、当時著者と読者が共有できていた「常識」が分からないために読解の限界があるように感じたために今回このような読み方をしてみた次第である。