詩のスケッチ3) 哀しき人

自分の孤独に無自覚でいる人。そんな人のそばにいる時ほど、哀しいことはない。

孤独に無自覚な人は、寂しさに無自覚だ。そしてだから、それを埋めようとしていることにも無自覚だ。

たちが悪いのは、それが他者を利用している場合。他者を利用していることにも、もちろん無自覚。

さらにたちが悪いのは、その他者が弱き者であるとき。はてはそのなかに、傷つく者がいるとき。目も当てられない事態に、あてがう言葉も感情も見つからない。

孤独に無自覚にいる人。それは他人を利用して、自分を一生懸命、慰めている人。それでいて、癒えない渇きに戸惑っている人。その戸惑いを誰にも相談できない人。そしてまた、さらなる慰めに向かう人。ずっと独り。それにも無自覚。

そんな人と話すときは、言葉は固まってしまう。比喩ではなく、文字通り、まるで意味を成さないのだ。彼我の間に真空空間でも出来たのか、はたまた自分の耳だけが遥か深海にでも沈められてしまったのか。話す言葉も、聞こえるはずの言葉も、意味を結んで頭と心に届いてくれる前に、息絶えてしまう。

こんな時いっそ啞であれたらばなんて思うことは傲慢で失礼で、慎ましさの欠片もない願いなのだろうか。諦めが悪いのかなんなのか、それとも根っからのお人好しなのかなんなのか、気づけば交信の窓口を探っているし、うっかり親交を結ぼうと尽力してしまっている。もう疲れた、いやだ、なんて言ってその歩み寄りを放棄したらしたで、ほんとにそれでよかったのかなんて、かえって悩みは深まるし。いっそ啞であれたらば。「無慈悲に」とか「冷酷に」とか、そんな言葉すらも毛ほども浮き出てこない圧倒的な速度の無感情っぷりで、彼らの前を立ち去れたらば。

例えばだ。無自覚あまりある人に、
いっつも室外機が動いているものだから、その暖房つけっぱなし生活というスタイルの如何が気になって「電気代ってどれくらいになるの?」って聞いてみる。自分も点けてみたら、どんな生活になるだろうと思うから。ずっと点けている氏の生活は、どんなものなのだろうと思うから。すると返ってくるのは、こんな言葉。

「ああ、お金とか余裕っすよ!」
「稼いででその辺マヒしちゃってますね」
「浮いた分はそっくりそのまま溜めれてますからね」

ああ、そうだったそうだった。うっかりきいてしまった自分が馬鹿だった。そうしてひとりまた反省して、釈然としないのっぺらぼうの気持ちを無理に胸の底へと押し込んで、持ち帰る。啞であれたらば。いっそ、啞であれたらば。そう願う自分にすらも、そこはかとない嫌悪を催しつつ。

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