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利休はなぜ殺された

信長の茶筅髷の調査を進めると、面白いことに行き着く。

寺院で行われていた、バサラ茶(別名 書見台子の茶)は茶筅を使わず、お茶を煮出していた。

紫檀、黒檀の唐机を挟んで椅子を置き、茶道具は、象牙の茶杓子、唐金の茶たてを用いた。もちろん茶碗は、高麗茶碗で明宋のものであった。

このテーブルに銀を山のように盛り上げ、勝敗を競ったものだ。闘茶とも言った。

神道系のわび茶は、茶筅を使用し華美を謹んで、国産品使用、賭け事厳禁、侘び寂びの茶を追求した。主体は堺の貿易商であり、千宗易、今井宗久、津田宗及。

堺の支配権を手に入れた信長は、資金の提供を堺衆に命じたが、頑として応じない。

よくよく調べたら、莫大な資金を元に、ポルトガルからの鉄砲と火薬の取引を今井宗久、津田宗及が抑えていたのだ。 

信長は仕方がないので、茶筅髷を結い、自らがわび茶の仲間として、接近して行った。

信長は今井宗久を取り込み、鉄砲を作らせることに成功した。また火薬の入手にも成功した。

この時点で光秀は筆頭の津田宗及とつながりがあることが記録にある。

本能寺の変の前日、本能寺において茶会が催された。利休がここにいたことは明白である。

では本能寺で何があったのか、茶会は名目であって、信長は無駄なことをしない。

つまり、この茶会は茶器の自慢は口実であって、全ての鉄砲火薬の流通を規制するための集まりであった。

これに反対した反対派が、本能寺で爆弾を破裂させたと思われる。

当時爆弾を持っていたのはポルトガル人だけだった。

これだけの情報で、誰が信長を殺したのか推理できそうだ。これは次のテーマにする。

本題の、利休はなぜ殺されたのか?

本能寺の変の前日、本能寺で行われた茶会での話を全て知っているから。

豊臣秀吉が、天下統一して刀狩りを行ったことは有名だが、火薬については言及がない。

豊臣秀吉が誇示した金の茶釜、金の茶室は、バサラ茶への逆行で、わび茶では許容されない。

信長殺しの真実を知り、光秀殺しの真実を知り、ポルトガルとの、強いつながりを持ち、鉄砲、火薬を自由に扱える、堺衆の筆頭に立つ利休が邪魔になったものだと思われる。

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