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利休の切腹

なぜ、利休が切腹しなければならなかったのか。調べたくなった。

信長が本能寺の変で斃され秀吉が天下を統一しこの頃から利休の立場が強くなっていく。

信長の葬儀が大徳寺で行われたのは、大徳寺の高僧と縁が深かった利休の勧めであったと言われている。

秀吉の利休への信頼は深まってゆき、1585年(天正13)3月、秀吉は大徳寺で大茶の湯を催した。諸大名をはじめ、堺衆25名、京衆50名が集まり、そこで秀吉自慢の茶道具が展観されたという。

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利休はそれまで宗易と名乗っていたが正親町天皇の勅許を得て利休と名乗るようになった。

豊後の大友宗麟は大阪城を訪ねた折「宗易を通さないでは誰も関白様に一言も申し上げられないように見受けられた」と記している。
この利休の地位を心良く思わなかった者は少なからずいただろう。

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この大茶の湯が、ただお茶を飲んで茶道具を褒めあっただけと考えるのは平和時代に生きる人間の『平和ボケ』だろう。

戦国時代の真只中、集まったメンバーは、スキ有らば、武力行使して天下を取ろうと狙っている大名たち。ポルトガルからの火薬を一手に買い取って高く売り捌こうとしている商人たち、それを統括する秀吉。

利休は全てを取りまとめて秀吉と接触できる地位にある。
秀吉は政権安定のため、大名の武力を取り上げるために検地刀狩りをしている。

『利休は大名に請われて火薬を調達する目的で商人と接触した』

利休を切腹させる要因はそれ以外考えられない。


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