見出し画像

中臣(藤原)

「中臣鎌足とは何者だろう?」という疑問が続いていた。中臣(藤原)氏が出てくると歴史の連続性というか、必然性が不明になってきた。

日本書紀と、古事記の内容相違にどちらが正しいのか混乱していた。

最近入手した本に

物証と状況証拠は、中臣鎌足が豊璋だったことを示している。そして、『日本書紀』やのちの藤原氏は、中臣鎌足の素性を熟知していたから、あらゆる手段を講じて、真実を抹殺しようと企んだのだろう。そのためにも藤原不比等は『日本書紀』を編纂する必要があった。その『日本書紀』がついたウソは、現代に至っても見破られることはなかった。中臣鎌足は古代最大の英雄と称えられてきた。しかし、中臣鎌足は百済王子・豊璋であり、改革派の蘇我入鹿を殺し、日本を無謀な百済救援に引き摺り込んだ。(豊璋 藤原鎌足の正体 関裕二)

との記載があり、納得し気持ちの整理がついた。ただし、この本には持統天皇=鸕野讚良皇女についての記載が少ない。

中臣鎌足がなくなって壬申の乱が勃発し、新蘇我派の大海人皇子が勝利して、「豊璋の子=藤原不比等」の居場所はなくなったはずなのだ。ところが、鸕野讚良皇女に拾われたことで、この人物の人生は変わり、日本人の不幸が始まったのだ。(豊璋 藤原鎌足の正体 関裕二)

この「日本人の不幸」という言葉が気になり、調べてみたいと思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?