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朝倉
朝倉は「古事記」にも書かれているように、歴史的に興味のあるところだ。
第37代斉明天皇は百済救済のため朝倉橘広庭宮に皇居と大本営を遷された。
これが正式に遷宮したのか、行宮だったのか明確でない。
美奈宜神社の由緒には
「仲哀天皇が「羽白熊鷲」を討つために軍を進めていたが途中病気で亡くなったので、神功皇后が喪を秘して竹内宿禰を従えて賊を討たれた」とある。
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この神功皇后と側近の武内宿禰については、戦前の教育では「三韓征伐」の英雄として賞賛され、お札の肖像にもなり、子供でも知っている有名人でした。
その反動で戦後教育では、「朝鮮侵略の象徴」「架空の人物」として抹殺され歴史教科書では一言も触れられていません。
もし神功皇后が架空の人物だとしても、当時のヤマト国家が朝鮮半島南部に出兵したことを示す同時代の記録があります。中国吉林省に建つ、広開土王(好太王)の碑です。
百残・新羅は、旧是れ属民にして、由来朝貢す。而るに倭は、辛卯の年を以て来りて海を渡り、百残・新羅を破り、以って臣民と為す。
この時代は躍動感に溢れて面白いのだが、何せ資料がない。伏せられていることも感じる。いつの日か、事実のわかる日が来ることを期待する。神功皇后と斉明天皇の関係も知りたい。
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