人生ゲーム
お正月。チビッコ達とボードゲームの「人生ゲーム」に興じました。
このゲーム、何年ぶりだろう?子どもの頃よく遊んだけど、大人になってやってみると、なるほどなるほど、人生ゲームですね。
子どもと遊んでいて面白かったのは、彼(彼女)らはゲームに没頭して、勝った負けたと感情をむき出しにして競っていたことです。
そう、これは単なる「ゲーム」なんです。
かく言う僕も、ゲームに勝つと嬉しいし、負けると「けっ!所詮はゲームじゃん!」と自分に言い聞かせ、慰めていました(笑)
ゲームに没頭すると、その世界(バーチャル)が現実(リアル)になるんですね。ゲームが終われば、それは一時のお遊びだったことに気づくんですが、最中はゲームの世界が「私の現実」になっている。
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「人生ゲーム」
なるほどね。僕らもこの人生ゲームに明け暮れているわけだ。
このゲームの中にいる限り、成功しようが、一番になろうが同じこと。
ズルをしようが、負けようが、あるいは途中でゲームに勝てないと悟って「これはゲームよ!? みんな熱くなってバカじゃない。私はこの競争は無意味だと悟ったの。私は超越しているのよ!」と、自分の殻に閉じこもろうが、結局はこのゲームがリアルだと思っているという点では同じなんだよね。
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ゲームに熱中する子どもたちに、お母さんは「そろそろ止めなさいよ。ご飯ですよ」と声をかける。
子どもは聴かない。聞こえていない。
お母さんは百戦錬磨だ。
「今日はお年玉がついているよ~♪」
子ども達は、いっせいに振り向いた。
なんだか『法華経』の喩えを思わせるじゃないですか。
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人生ゲームに明け暮れる僕に、あの手この手のご方便。
十劫呼びづめの切ない親心を思わせてもらいました。
「呼んでるだけやない。飛び込んできて下さってるのや!」
南無阿弥陀仏
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でも「人生ゲーム」なんていうと、この世が取るに足らないゲームのように思ってしまうニヒリスト・アナーキストさんもいるかもしれません。
人生ゲームも素晴らしいのです。
【お爺さんと孫の話】
あるところにお爺さんとその孫がいました。
お爺さんは孫にあるゲームを教えて、一緒に遊んでいました。
孫は何回やっても、勝てません。
そのうち孫は、お爺さんの目を盗んで、
インチキをしだしました。
もちろん、お爺さんは見て見ぬふり。
孫はインチキをして初めてゲームに勝つことが出来ました。
ところが、それから何日かゲームをしていると、
孫はもうインチキをしなくなりました。
孫は最初「勝つこと」が目的でした。
でも次第に、ゲームに勝つことよりも、
ゲーム自体を「楽しむこと」が目的になったのでした。
インチキをしてゲームに勝っても、全然面白くなかったからです。
それに、いつもどこかにやましい気持ちが残りました。
ゲームというのは、そのルールの中で遊ぶことが楽しいのでした。
ルールを無視して勝っても、孫はちっとも楽しくなかったのです。
ゲームを「深刻」にとらえなくていいのです。
それはゲームです。
ただ「真剣」であればいいのです。
そして孫はお爺さんと相談して、弟や妹も一緒に楽しく遊べるように、
このゲームの特別ルールを新たに作ったり、さらにまた新しいゲームを考えたりして、楽しく遊びました。ゲームはみんなで楽しんでこそ面白いからです。
こうして孫はさらに「創造する喜び」を知ることが出来ました。
そしてゲームが終わったら、縁側でお爺さんとお茶を飲むのでした。
おしまい。
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2007年正月
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