口伝鈔 第21章 「多念のきはまり、いづれのときと定むべきぞや。」 ポルトガル語、日本語原文 朗読動画あり。
おはようございます。 今日も一緒にお参りをいたしましょう!
Bom dia a todos! Vamos juntos rito matinal.
『大無量寿経』(巻上)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E8%AA%AC_%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C_(%E5%B7%BB%E4%B8%8A)
『大無量寿経』(巻下)
http://labo.wikidharma.org/index.php/仏説_無量寿経_(巻下)
O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita (1)
https://www.dropbox.com/s/4jizvk1admnv3rm/sutra%20Buddha%20vida%20infinita%20-%20parte%20um.doc?dl=0
O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita (2)
https://www.dropbox.com/s/o1uj62burt5yizf/sutra_Buddha_vida_infinita_-_parte_dois.doc?dl=0
BU" SE' MU RYÔ JU KYÔ (Pronúncia japonesa)
https://www.dropbox.com/s/jb3zfnv4qhzoya0/BU%22%20SE%27%20MU%20RY%C3%94%20JU%20KY%C3%94%20KAN%20J%C3%94.pages?dl=0
Na busca do Voto Original através do Nembutsu múltiplo, quantos são necessários? A morte toma várias formas para o profano ordinário - morte pelo fogo, pelo afogamento, pela água, pela espada ou quando adormecido. Tudo é karma passado atuando sobre nós e ele é inevitável.
Suponha que o karma dita que o fim da vida está próximo, então nós pensamos: "Tempo para parar com os vários Nembutsu", mudando rapidamente para a recitaçāo de dez Nembutsu, para que recebamos o Buda. Esperamos que seja verdade, mas não é absolutamente certo se o Buda e seu séquito aparecerá do ponto de vista do Voto.
DeepL翻訳
複数の念仏による「元の誓い」を求める場合、いくつ必要なのでしょうか。火による死、溺死、水死、刀による死、睡眠中の死など、普通の俗人にとって死は様々な形をとる。すべては過去のカルマが私たちに作用しているのであり、それは必然なのです。
仮に因果応報で人生の終わりが近いとしたら、「そろそろ諸念仏を止めよう」と思って、すぐに十念仏を唱えて仏様を迎えるように切り替えます。そうであってほしいが、ヴァウの視点で仏陀とその従者が登場するかどうかは、絶対的なものではない。
原文
もし多念をもつて本願としたまはば、多念のきはまり、いづれのときと定むべきぞや。いのちをはるときなるべくんば、凡夫に死の縁まちまちなり。火に焼けても死し、水にながれても死し、乃至、刀剣にあたりても死し、ねぶりのうちにも死せん。これみな先業の所感、さらにのがるべからず。しかるに、もしかかる業ありてをはらん機、多念のをはりぞと期するところ、たぢろかずして、そのときかさねて十念を成じ来迎引接にあづからんこと、機として、たとひかねてあらますといふとも、願としてかならず迎接あらんことおほきに不定なり。
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ねぶり
ねむり。(口伝鈔 P.911)
先業の所感
せんごう-の-しょかん
前世の業因による報い。前世の行為に引かれたもの。→補註5 (口伝鈔 P.911)
東本願寺聖典 ふりがな付き
https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=674
現代文
もし数多く念仏を称えることをもって本願とされるならば、その数の極限はいつと定めたものだろうか。生命の終る時であるならば、恐かなひとの死に方はその姿がまちまちである。火に焼けて死ぬことも水に流れて死ぬことも、ないしは刀にふれて死ぬことも、眠りながら死ぬこともあろう。これらはみな前世に行った行為に引かれたもので、けっしてこれを逃れることはできない。ところが、もしこのような死に方で死んで行こうとするひとが、いまこそ数多く称えて来た念仏の終りが来たと、かねて思い定めたところにひるむことなく、その臨終に際して重ねて十声の念仏を行い、阿弥陀仏や菩薩のお迎えにあずかろうすることは、そのひとの素質としては、たといかねてお迎えがあると予測されているとしても、本願の上からいってかならずお迎えに接するかどうか、はなはだ当てにはならない。
歎異抄・執持抄・口伝抄・改邪鈔 (東洋文庫0033) Kindle版
親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)
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