「いのちの声を聞くーブラジルからのメールー」

    東京教区第五組・同朋大会原稿 
  「いのちの声を聞くーブラジルからのメールー」    
 

 こんにちは。予定では直接みなさんにお会いしてお話し申し上げるはずでしたが、新型コロナウイルスの影響により、このように紙面でお話をさせていただくことになりました。
 そこでまず新型コロナウイルスを通して、いま「いのちの声に聞く」とはどういうことなのか、考えてみます。さらにはこの新型コロナウイルスの感染拡大は世界共通の問題でもあり、ブラジルの友人から寄せられたメールを通して、いま、私たちに何が問われているのか、考えたいと思います。
 ブラジルのサンパウロ州では五月現在、新型コロナウイルスのために外出禁止令が出ています。そういう状況を生きる友人から私宛に出されたメールを皆さんに紹介して、友人の問題提起を共有したいと思います。

 「今、世界中、大変な状況になっています。ブラジル別院も閉められ、それぞれ隔離の最中です。一人が病気になれば、家族、隣人、知らない人にまで影響する病気。今まではあまり気にしなかった使用人の生活。どこに住んでどんな生活をしているのか。ただ給料さえ払えばと思っていた。何も理解していなかった。満員のバス、メトロで通って来ているのか。スラムに住んでいるのか。もし貧弱な家に住んでいるのなら、お国が言っている人と人の間に1メーターのスペースをあける。冗談でしょう。消毒液どころか手を洗う水なんかないはず。仕事に行かないとその日の食べ物は誰がくれますか。無理な話です。一端病気になればどこの病院がみてくれますか。この状況を生きるスラムの人たちはサンパウロ市だけでも三十数万人をこえます。この事実を考えてこなかった。私たちは彼らと二つに分かれた世界を生きてきた。一方の私たちは隔離された生活の中でも、買い物はネットでデリーバリー。消毒液、石鹸,マスク、運動のできる敷地内。さらにはプール。少なくとも明日食べるものの心配はない。今まで見落としてきた社会の在り方を問うこともなく、今のシチュエーション、自分のなくしたもの。自分の明日だけを嘆いていました。しかし、そういう中で気が付いたのは、ウイルスは金持、貧乏人、若者、年寄、学者など、遠慮なく、選ばず侵していくことです。死の恐れと不安を通して、同じ状況にいる彼らのことがようやく問題になりました。今までの私は何をみていたのか。これから何ができるんだろうか。」(MORI HISA)

 これはサンパウロに生きる友人が赤裸々に今の自分を語ってくれたメールです。友人の問いは個人的な問いではないです。それは日本に生きる私の問いでもあります。新型コロナウイルスは、友人がいうように今日を苦しむものと、明日を憂えるものとの二つの世界、つまり富めるものと貧しきものとの格差社会の矛盾を赤裸々にあばきながら、その格差社会の壁を突き破って、垣根なく私たちに死の不安と恐怖をもたらしています。
 この不安と恐怖をたばねて、全体主義的な政治に人々を扇動するような事例は古今東西いつでも起きています。日本も例外ではないでしょう。そういう問題もきっちりと見据えて、こういう状況の中で、あらためて、人が人であることがどういうことなのかを友人は問うています。
 『大無量寿経』冒頭に「老・病・死を見て世の非常を悟る」の言葉があります。世界に蔓延する新型コロナウイルスはまさに「世の非常」を投げかけています。私たちの存在そのものを揺り動かすような死の不安と恐怖の中で、私たちの生き方の全てが「それでいいのか」と問われています。それこそが大会テーマ「いのちの声に聞く」に表れる趣旨であると思います。
 それにもかかわらず、私たちの現実はいたずらに流言飛語に誑(たぶら)かされ、右往左往することはあっても、自分の生き方の矛盾・歪み・不正に目を向けることはありません。かつてアフリカの医療に携わる青年をモデルにしたさだまさしさんの「風に立つライオン」に、「やはり僕たちの国は残念だけれど、何か大切な処で道を間違えたようですね」という歌詞があります。
 そこでいう間違えた道とはどこかにあるわけではありません。それは私たち一人一人の生き方です。人間でありながら人間であることを見失っている生き方です。その生き方が人間を失った国の姿です。だからこそ、人間を回復する道として「老・病・死を見て世の非常を悟る」と表されるのです。私たちは様々な装いで「老・病・死」を覆い隠します。そのもっとも見たくない現実が私たちの「間違えた道」を質(ただ)すのです。まさしく私たちに「老・病・死」を見よと、そして人間に帰れと呼びかけられるのです。それがリアルな「いのちの声を聞く」世界です。
 ところで、私たちは今回の新型コロナウイルスを避けるためにマスク着用、三密回避の生活により、通常の人と人とのつながりが否定されました。しかし、よくよく考えてみると、私たちは新型コロナウイルスに断ち切られる前に、私の友人が「今までの私たちは彼らと二つに分かれた世界を生きてきた。」というように、私たちはすでに生活の上で、自己中心的な欲望を満足させるために自ら人と人との関係を断ち切っていたのではないか。そういう現実がまずあるのではないか。
 友人もまた平生は当たり前のようにして隣人の苦しみに目を向けることもなく生活していた。それが新型コロナウイルスの蔓延により、今まで見てこなかった隣人の存在に目を向け、貧しい人たちの生活に思いを馳せることになった。そのように、本来は人間としてつながりあっていたにも関わらずに、その根本的事実に背いて、我が身一つを世界とし、我が身一人を自己として生きてきた傲慢さが、本来の世界を見失わせていたのです。
 そのことを私に気づかせようとする呼び声、浄土真宗ではそれこそが阿弥陀仏の本願のはたらきです。その阿弥陀の本願が私たち一人一人に、本来の世界に呼び戻させる声、つまり「いのちの声」としてはたらいているのです。具体的には、それは私の友人が気づいた隣人の声なき声として、その「いのちの声」は叫ばれていたのです。それは悲鳴であり、苦痛であり、怒りであり、悲しみであります。
 それらの声こそが誰もが相互に共存している本来の世界から、その世界を見失ったものに呼びかける「いのちの声」です。浄土真宗では、それこそが南無阿弥陀仏と念仏もうして、仏の声を聞くということです。念仏は私の欲望を満足させる呪文ではありません。人を踏みつけ、傷つけ、殺しさえする「私と私の世界」に呼びかける大いなる悲しみの声です。
 それは仏の大慈悲心です。その大悲の心が南無阿弥陀仏の声となって、私たち一人一人に手渡されています。それが『正信偈』に説かれる「重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、名声十方に聞超えんと)」です。その意味では、現実問題の只中で、呻き悲しむ声に、仏の大きな悲しみの声に出会っていくことが「いのちの声を聞く」ことです。
 隣人の声なき声にまでなって私を呼びかけている仏の心に目覚めて念仏申すことです。それが「いのちの声を聞く」ということです。それは宗教、民族、国籍、性差を超えて、全ての人に関わる問題です。だからブラジルの友人も、私たちと同じくいま新型コロナウイルスを通して、「いのちの声を聞く」毎日を生きているのです。


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